卵を溶かしきらない

粟田奈都の前には、すき焼きのための生卵が一つ置かれていた。

友人たちは奈都の婚約を祝うつもりで集まった。予約していた店が休みになり、急きょ友人宅の卓上鍋になったが、紙の飾りには〈おめでとう〉と金色の文字が揺れている。友人たちは式で着る服の話まで始めていて、奈都は何度も笑う場所を間違えた。

奈都は、婚約を解消したいと思っている。

相手に暴力も借金もない。優しく、仕事も安定し、両親同士も喜んでいる。ただ結婚後は仕事を減らしてほしいと言われた。冗談のように聞こえた最初の一度を、奈都は三度聞き直した。三度とも、相手の答えは同じだった。

奈都は来年度、海外案件を任される予定だ。そのために夜間講座へ通い、休日も勉強してきた。婚約者は努力を褒めながら、「結婚したら十分頑張ったことにしよう」と言った。優しさの形をした終止符だった。

鍋から甘い割り下の香りが上がった。奈都は卵を軽く二回だけ混ぜ、黄身と白身をまだらに残した。熱い牛肉をくぐらせると、黄色い部分だけがとろりと絡み、白身は器の底で冷たかった。

「式、いつ?」

聞かれて、奈都は肉を噛んだ。答えの代わりに、次の一枚を取る。祝いの席を壊したくなくて、いつもより速く食べた。

友人の一人が火を弱めた。別の一人は、金色の飾りを壁から外し、鍋敷きの下へそっと挟んだ。誰も理由を尋ねなかった。

奈都は二枚目の肉を卵へ入れた。今度は黄身の濃い部分ではなく、透明な白身だけをまとわせて食べた。混ぜきらなかったものにも、それぞれの味がある。

鞄には、式場の仮予約書と、断り方を書き直したメモが入っている。祝いを受け取ったあとで撤回するのは卑怯だと思っていた。

奈都は卵を最後まで溶かさず、黄色と透明の境目を残したまま箸を置いた。

「結婚、やめるかもしれない」

長い沈黙はなかった。友人が飾りを鍋敷きの下から抜き、金色の文字を裏返した。白い裏面へペンで〈奈都の選択に〉と書く。

奈都は器に残った一口分の卵を飲まなかった。全部を丸く収めない証拠として、そのまま残した。

祝われるものは、婚約だけではなかった。