卵を落としたうどん

木曜の午後十時、梢は鍋に冷凍うどんを落とした。

帰宅してから四十分、コートを脱いだだけで何もしていない。流しには朝のマグカップ、テーブルには開封したままの郵便物。夕飯を抜くつもりだったが、空腹で眠れないほうが面倒だった。

湯が再び沸く前に、鈴音から電話が来た。

「遅い時間にごめん。今日、言いたくて」

鈴音は、来月結婚する、と話した。梢は鍋のふたを押さえながら「おめでとう」と答えた。声はきちんと出たが、胸の中には一拍遅れて、冷たいものが落ちた。

鈴音とは、二十歳のころから何度も失恋の電話をし合った。終電を逃した夜、二人でコンビニのうどんを食べながら、「もう恋愛しない」と宣言したこともある。もちろん本気ではなかった。それでも、自分だけが昔の誓いの場所に残っているような気がした。

電話の向こうで、誰かが「お湯沸いたよ」と言った。鈴音が少し遠くなり、「いま行く」と返す。二人で暮らす声の距離だった。

梢は冷蔵庫を開けた。卵が一つだけある。明日の朝、食パンに載せるために残していた。

「梢は最近どう?」

鈴音に聞かれ、仕事が忙しいとか、特に何もないとか、いつもの答えが浮かんだ。

「いま、うどん作ってる」

「それ近況?」

「今日いちばん大事な近況」

鈴音が笑った。その笑い方は、結婚する前と変わらなかった。

梢は卵を鍋の縁で割った。黄身が崩れず、白身が湯の中で薄く広がる。明日の朝食は少し寂しくなる。だが、明日の自分のために、今夜の自分を空腹のままにする必要はない。

式はしないこと、指輪は二人で選んだことを聞き、電話を切った。うどんは少し煮すぎていた。梢は鍋のままテーブルへ運び、洗っていないマグカップを端へ押した。

鈴音の人生が進んだことと、梢の夜が遅くなったことは、同じ物差しで比べなくていい。

半熟の黄身を箸で割ると、だしが黄色く濁った。梢は一番温かいところを先に食べた。明日の朝は、パンだけでもなんとかなる。今夜は卵まで食べていい。