取り壊し前の合鍵

「鍵は、最後に返してね」

古い社宅の物置を秘密基地にした小学六年の夏、御影芙由は榎田悠成へ合鍵を渡した。壁には二人の身長を刻み、空き缶に小銭をため、いつか同じ町で店を開く計画まで書いた。

翌年、悠成の家が転勤で引っ越した。鍵は返されないまま、連絡は年賀状だけになった。

十六年後、社宅の取り壊しが決まり、住民向けの最後の内覧日が設けられた。建築事務所で働く芙由は記録係として現場に入り、埃の中で物置の扉を開けた。

中に悠成がいた。

「不法侵入」

「鍵で入った」

彼が掲げたのは、錆びた小さな合鍵だった。今は家具修復の職人をしているという。壁の身長線も、二人で書いた店の図も残っていた。大人になった二人が並ぶと、天井は驚くほど低い。

「これ、返しに来た」

悠成が鍵を差し出す。芙由は受け取れなかった。返されたら、二人の間に残っていた最後のものまで片づけられる気がした。

作業員が閉館を知らせに来る。外へ出ると、夕暮れの敷地で重機が眠っていた。

悠成は古い鍵を芙由の掌へ置き、その上に、真新しい銀色の鍵をもう一本重ねた。

「駅裏に工房を借りた。来月から開ける」

「これは?」

「裏口。表が閉まっていても入れる」

住所の書かれたカードには、開店最初の土曜、十時という予定が添えられていた。《最初の客 芙由》とある。

「合鍵を幼なじみに渡すの、無防備すぎない?」

「幼なじみだから渡すんじゃない」

悠成は答えの代わりに、鍵を包んだ芙由の手ごと握った。作業員が門を閉めるまで、どちらも離さなかった。

芙由はスマホへ工房の住所を登録し、カードの予定に《承諾》と返す。さらに毎月第一土曜を繰り返しにした。

「鍵、なくさないで」

「今度は返さなくていい?」

「返してほしいときは、俺が会いに行く」

昔の鍵は、最後に返す約束だった。

けれど取り壊しの日に渡された新しい鍵は、終わった秘密基地の代わりではない。これから何度も会う場所へ、芙由だけが入れる関係の始まりだった。