受取人欄のインク
露木原綾穂は、保険会社から届いた解約確認書を見て、初めて夫の計画を知った。
自分名義の積立保険が解約され、返戻金の振込先が龍ヶ崎崇史の口座へ変更されている。担当者は、崇史の交際相手である姫川紗映だった。
二人を呼ぶと、紗映は書類を指で叩いた。
「奥様の署名もあります。家計を任せきりにしていたから、忘れたんじゃないですか」
崇史も笑った。
「金の管理が苦手なお前の代わりに、増やしてやろうと思っただけだ」
綾穂は保険会社の支店長へ連絡し、本人確認記録の開示を求めた。
契約変更は、対面なら署名用端末、遠隔なら本人の顔と声を録画する決まりだった。保管映像には、綾穂の代わりに帽子とマスクを着けた紗映が座り、崇史が画面外から答えを教える姿が映っていた。
署名用端末の筆跡も、綾穂の過去の記録とは筆順が違う。端末固有の座標データは、紗映が右手で署名したことを示した。左利きの綾穂にはあり得ない軌跡だった。
「社内テストです」と紗映は言い張った。
支店長は、変更操作が本番システムで行われ、返戻金の一部が二人の旅行代へ送金された記録を示した。ホテルの予約、同室利用、親密なメッセージも、綾穂の代理人が保全していた。
保険会社は紗映を懲戒解雇し、不正送金分を即時弁済したうえで、刑事告訴を検討すると通知した。崇史へも共犯として返還請求が出される。
綾穂の弁護士は、不貞慰謝料、使い込み、偽造に伴う損害を合算した請求書を二人へ渡した。
崇史の父が支店へ駆けつけたが、息子を庇わなかった。
「綾穂さんの財産を盗んでまで遊ぶ者を、家の後継にはできない」
家業の取締役就任は撤回され、実家からの援助も打ち切られた。
支店長が不正な受取人変更を取り消し、正式な契約画面を綾穂へ見せる。所有者、契約者、受取口座。すべて彼女自身の名へ戻っていた。
受取人欄の偽のインクがシステムから消えた瞬間、二人が奪おうとした金より大きな代償だけが、二人の名前へ確定した。