台本のない一文
御子柴穂波は、電話をかける前に台本を書く。
挨拶、要件、相手が断った場合の返事。広報の仕事を始めて二年、予想外の質問が来ると頭が白くなるため、会議でも発言内容をメモしてから手を挙げた。書き終えるころには話題が変わり、意見は議事録に載らない。あとで「言えばよかった」と思う言葉ばかりが、ノートに増えた。来週には雑誌編集者へ初めて取材依頼をする予定で、その電話台本はすでに四ページになっていた。
取材の下見で訪れた図書館に、子ども向けの録音室があった。地域の音を集める企画で、壁には「踏切」「雨どい」「猫のくしゃみ」と書かれたカードが並んでいる。
室内では、大河という十歳の男の子が小型マイクを持っていた。穂波が扉を開けると、彼は突然マイクを向けた。
「今、何の音がした?」
「えっと、扉の……」
穂波が言い直そうとすると、大河は録音停止を押さない。
「やり直さないの?」
「今日の音は一回しかないから」
大河は赤い録音ランプを指した。
「三回光る前に、今思ったこと言って」
「取材の人だから、ちゃんとしたことを言わないと」
「ちゃんとした音って、どれ?」
穂波が答えられずにいる間も、ランプは点滅した。一回、二回。窓の外で雨が降り始め、土の匂いが細い隙間から入ってくる。
三回目の直前、穂波は「雨の匂いがします」と言った。音の企画なのに匂いの話をしてしまった。大河は笑わず、カードへそのまま書き、「雨の前の声」と箱へ入れた。
録音室を出る前、大河は音声を一度だけ再生した。扉の軋み、穂波の詰まった息、その向こうの雨。滑らかではなかったが、聞き取れないわけでもない。大河は編集せず保存し、穂波も訂正を頼まなかった。
翌朝の会議で、新しい広報企画について意見を求められた。穂波のノートには、昨夜整えた三つの案がある。どれから話すか迷っているうち、部長が次へ進もうとした。
机の端で、録音室でもらった赤い丸のシールが目に入った。
穂波は文章を完成させる前に手を挙げた。
「まだまとまっていませんが、雨の日の声を集める案を話してもいいですか」