同僚ではなくなる午後

社員食堂が閉まる午後五時まで、あと十五分だった。

 菫は窓際の席で、伊吹から渡された異動の挨拶菓子を見つめていた。彼は今日付で子会社へ移る。社員証も、五時に失効する。

「最後くらい、社外でご飯行かない?」

「行かない」

「何回目の拒否だろう」

「同僚だから」

 伊吹は以前、社内恋愛の別れが部署中に知れ渡り、半年ほど仕事にならなかった。それ以来、同僚とは付き合わないと公言している。

 菫が好きだと言えない理由は、それ一つだった。彼が守るために引いた線を、自分だけ特別だと踏み越えたくなかった。

 昼休みはいつも四人以上で取り、帰りの電車が同じでも一両ずらした。伊吹が風邪で休んだ日は、薬を机に置いたあと、差出人を書かなかった。線を守るのは思ったより手間がかかり、守るほど気持ちははっきりした。食堂の窓には、二人の姿が並んで映っている。伊吹はいつも通りネクタイを緩め、菫はいつも通り視線をトレーへ落とした。いつも通りでいられるのも、あと十五分だけだった。

「同僚だと、食事もだめ?」

「二人ではね」

「じゃあ、相談。転職先の近くで店を探してる」

「それも勤務時間外」

「徹底してるな」

 食堂の職員が椅子を上げ始める。あと十分。

「本当に、俺のこと苦手?」

「同僚だから」

 二度目は、菫自身にも意味が分からなくなった。

 伊吹は紙コップの水を飲み干した。「五時を過ぎたら?」

「子会社でもグループ社員でしょ」

「雇用契約は別。人事にも確認した」

「何を確認してるの」

「線の場所」

 閉店の音楽が流れ、食堂の時計が四時五十九分になる。伊吹は首から社員証を外した。

「あと一分。答え、変わる?」

 菫は立ち上がり、トレーを返却口へ置いた。

「同僚だから断ってた」

 三度目だけ、正しい順番で言った。

「嫌いだからじゃない」

 五時ちょうど、伊吹の社員証のランプが赤く変わる。

 菫は自販機でコーヒーを二本買い、一本を持ったまま正面玄関の外へ出た。伊吹が退館手続きを終えるまで、そこを動かなかった。