名前のあるコップ

羽鳥未砂は、引っ越しても段ボールを全部は開けなかった。次の異動や更新拒否に備えて、鍋も本も半分は箱の中。暮らしを仮のままにしておけば、出ていくとき傷つかずに済むと思っていた。二度の転勤で、気に入った店も近所の人も置いてきた。壁に写真を飾らず、カーテンの裾も直さない。居心地をよくするほど別れが増えるなら、最初から客のように暮らすほうが賢いと、未砂は自分へ言い聞かせていた。四年で三度住まいを替えたが、壁へ写真を飾ったことはない。住所変更の手続きだけは早いのに、その町の店員に顔を覚えられる前に次の更新時期が来た。

海外へ行く友人の部屋を一か月借りることになり、そこには同じく短期滞在中の藤堂遥緒がいた。遥緒は植物の調査で山へ通い、泥のついた長靴を玄関に置いた。冷蔵庫には採取日を書いた袋、洗面台には緑色の石鹸。どこにいても、遥緒が暮らしていると分かる部屋だった。遥緒は滞在が短くても洗った長靴を同じ向きに干し、朝に使う匙を一番手前へ置いた。場所を借りることと、そこにいないふりをすることを分けているようだった。

未砂は紙コップを買い、毎晩捨てた。ある朝、遥緒が潰れた紙コップを拾い上げた。

「この家で、未砂さんが触ったって分かるもの、何かある?」

「掃除はしています」

「掃除すると、分からなくなるね」

遥緒は陶器のコップを三つ並べた。白、茶、薄い緑。

「一つ選んで、底に名前を書いてみて。消せるペンでいいから」

何のためか訊く前に、遥緒は長靴を履いて出ていった。

未砂は緑のコップを手に取ったが、棚へ戻した。名前を書くほどの滞在ではない。けれど、短いからこそ誰の時間だったのか分からないまま終わるのだ、とも思った。あと二十六日で出る。そもそも自分の家でもない。

その夜、家主から「帰国が延びたので、もう一か月使っていい」と連絡が来た。未砂はすぐに次の部屋を探そうとした。長く借りれば迷惑かもしれないし、居心地がよくなるほど返すのがつらい。

机の端に、遥緒の黒いペンがある。未砂は緑のコップを裏返した。底の円は小さく、名字まで書くと窮屈だった。

未砂、とだけ書いた。インクが乾くまで指で支え、紙コップの束を流しの下へしまう。

それから緑のコップを、客用の上段ではなく、毎朝手が届く真ん中の棚へ置いた。