名字で呼ぶ夜
槙が母からの電話に出ると、最初の言葉は「由良は元気?」だった。
自分への挨拶より先に妹の名前が来るのは、珍しくない。
「知らない。先週から話してない」
「姉妹なのに薄情ね。由良はあなたのこと、何でも教えてくれるのに」
槙はベランダの窓を閉めた。雨が手すりを細かく叩いている。
母は続けた。
「それでね、由良は昇進したでしょう。あなたの会社はどうなの」
「変わらないよ」
「焦らないの? 妹に先を越されて」
昔は逆だった。試験の点も、就職も、槙が先に決まるたび、「由良の気持ちを考えて」と言われた。由良が先へ進めば、「姉として恥ずかしくないの」と言われる。順番は変わっても、比較だけはなくならない。
「母さん、今日は何の用?」
「用がなきゃ電話しちゃいけない?」
「由良の近況を聞くためなら、由良にかけて」
「そうじゃなくて、あなたが心配で」
「私の何が?」
母は少し黙り、「由良に比べて、張り合いがなさそうだから」と答えた。
槙は食卓の郵便物に目を落とした。会社から届いた封筒には、名字だけが印刷されている。妹と同じ名字だったころ、学校では二人を「大きい佐伯」「小さい佐伯」と呼ぶ先生がいた。母も面白がって真似をした。
「これから、私たちを名字で呼んで」
「何?」
「私を槙、由良を由良じゃなくて、佐伯さんと森下さんって」
「家族にそんな呼び方、おかしいでしょう」
「じゃあ名前で呼んで。比べるときだけ姉と妹に戻さないで」
母がため息をつく。
「槙は昔から理屈っぽい」
「今のは合格」
思わず言うと、向こうが黙った。
槙は続けた。
「次に『由良に比べて』って言ったら、その日の電話は終わりにする」
「そんな規則を親に押しつけるの」
「私の電話だから、私が決める」
雨音が少し強くなった。
母は、「分かったわよ、槙」と不機嫌に言った。その直後、「でも由良は――」と続ける。
槙は約束どおり通話を切った。
罪悪感が来る前に、由良へ短いメッセージを送る。
〈母さんから私のことを聞かれても、答えなくていいから〉
すぐに返事が来た。
〈了解。私のことも答えなくていい〉
槙は連絡先の母の表示を、「お母さん」から名字だけの「佐伯」に変えた。
雨の夜、その距離は冷たさではなく、傘一本分の広さに思えた。