境界線で止まる身体
桑折暁臣は毎朝、区役所前で配送用身体を借りる。長い脚と強い肺で、旧市街なら一時間に二十件回れる。貸出身体は契約区域の外へ出ると停止する。盗難と又貸しを防ぐための、たった一つの規則だった。
恋人の日名子は、区域境界の向こうにある研究所で働いていた。
二人が会うのは、境界線上の小さな喫茶店だった。暁臣は旧市街側、日名子は新市街側。同じテーブルを挟んで座れば、どちらの身体も止まらない。
その夜、日名子から短い通話が来た。
『事故。地下通路。脚が動かない』
研究所で爆発が起き、避難路が崩れた。位置表示は境界から百八十メートル先だった。
暁臣は配送を放り出し、走った。
境界線には黄色い光が引かれている。越えれば身体は回収モードになり、意識は本体へ戻される。本体は旧市街の保管施設。そこから日名子のもとへ行く手段はない。
彼は端末で区域追加を買おうとした。
《配送契約中の区域変更はできません》
「人が死ぬんだ」
《緊急機関へ連絡してください》
連絡済みだった。新市街の救助隊は、研究機密区域への入場承認を待っている。
日名子の呼吸が通話越しに細くなる。
『喫茶店、見える?』
「見える」
いつもの窓際席が暗い通りにあった。
『一歩だけ、こっちに来て』
暁臣は境界へ足を置いた。靴の半分が黄色い光を越える。膝から下の感覚が消えた。
警告が出る。
《区域外接触》
《あと三秒で全身停止します》
彼は足を戻した。身体は再起動する。
「日名子、俺の本体なら越えられる。今戻って――」
『その身体、歩けないでしょ』
本体は筋萎縮で車椅子だった。しかも保管施設の夜間扉は閉まっている。
日名子が笑った。
『じゃあ、いつもの席で待ってて』
通話画面の心拍表示が下がる。
暁臣は黄色い線の手前に膝をついた。向こう側まで百八十メートル。配送用身体なら三十秒で届く距離だった。
彼はもう一度踏み越えた。
三秒間だけ全力で走る。
一歩、二歩、三歩。
身体が停止し、倒れる直前、意識が旧市街の本体へ引き戻された。
保管槽で目を開く。動かない脚。閉じた扉。
端末には最後の位置が表示されていた。
《区域外侵入距離:六・二メートル》
《貸出身体を回収します》
日名子まで、あと百七十三・八メートル。
その数字の下で、彼女の心拍表示が消えた。