声を出さない電話
黒川愛理が改札内の柱にもたれていると、隣の女性がスマートフォンのメモ画面を差し出した。
《助けてください。電話の相手が南口にいます》
女性は通話中だった。スピーカーから、低い男の声が漏れている。「見えてるからな」「早く出てこい」と繰り返していた。女性は唇を動かさず、次の文を打つ。
《前の職場の上司です。警察は呼びたくない。電車に乗れればいい》
愛理は、記録も届け出もない逃げ方は同じことを繰り返すと思った。女性は以前相談して、「仕事の行き違い」と扱われたらしい。制度を信じる愛理と、制度に名前をつけられたくない女性では、話が合わない。
《駅員室へ行きましょう》
《大ごとにしないで》
《通報するかは、あなたが決めればいい。今は外へ出ない》
女性は画面を見たまま、肩の大きなバッグを床へ置いた。片手が通話でふさがり、もう片方は震えている。
愛理はバッグを持ち上げた。女性が驚く。
「声は出さなくていいです」
愛理は自分の端末で録音を始め、画面を女性に見せた。女性は小さく首を振ったあと、通話を切らずに歩きだした。
愛理はメモへ《録音を消してほしいときは、あとで消します》と打った。女性は《今は残す》と返した。永久に届け出る決心を求められたのではなく、今夜だけ選択肢を減らさないための保存だと分かると、歩幅が少し戻った。
二人は売店のシャッター沿いを進み、監視カメラの真下を通った。愛理は男を探して振り返りたかったが、女性が前だけ見ているので同じ向きを保った。二人の靴音が、電話の向こうへ規則正しく届く。
南口へ続く階段の前で男の声が強くなった。女性の足が止まり、愛理も止まる。愛理が進めとは言わずに駅員室の矢印を指すと、女性はそちらへ向きを変えた。
窓口の灯りが見えたところで、電話が切れた。
女性は警察へ行くとは言わなかった。愛理も勧め直さなかった。ただ録音ファイルの保存を確認し、バッグをカウンターへ置く。
画面には四分十二秒。
二人が同じ方向へ歩いた時間だけは、消えずに残った。