声紋にないさよなら

遠野ララの最後の曲には、声紋に存在しない「さよなら」が入っていた。

音声鑑定人の馬場園史郎は、警察から渡されたマスターを研究室で再生した。ララは河川敷の高架から転落して死亡し、曲はその直前に自動保存されている。三分二十二秒、伴奏が止まったあと、字幕ソフトだけが一行を出した。

〈さよならを言って〉

波形は無音。スペクトルにも人声はない。史郎は「自動字幕の誤認です」と答えた。

ララは録音で感情が出ない時、元恋人でもあった史郎へ、冷たい別れの台詞を求めた。

史郎が冷たく別れを告げると、彼女は泣きそうな声で歌えた。二人だけの、残酷な演出だった。

別れたあと、ララは史郎が自分の歌声データを無断販売していると知った。河川敷へ呼び出し、訴えると言った。史郎は手すり際まで追い詰めた。風に消えるほど小さく、最後の演出を命じた。

「さよならを言って」

彼女が拒んだので、背中を押した。落ちる直前、ララは声を出さなかった。ただ史郎の口元を見ていた。その目が、鑑定室のモニターに映る無音の波形よりも長く、史郎の記憶に残った。だから曲が止まるたび、彼の口はあの夜の命令を勝手になぞった。

鑑定中、字幕は再生するたび同じ言葉を表示する。史郎はマスターを別の端末へ移した。そこでは何も出ない。元の端末へ戻すと、また現れる。

刑事が設定画面を開いた。字幕ソフトの入力先は「システム音声+室内マイク」になっている。曲が終わるたび、研究室のマイクが起動していた。

無音だったのはファイルの中だけだ。

史郎自身が、再生のたびに唇を動かしていた。

録画を巻き戻す。最後の一音が消えた直後、青ざめた史郎が、記憶に引かれるように囁く。

「さよならを言って」

それが存在しない最後の歌詞の正体だった。ララの声ではない。事件を知る史郎の声だった。

刑事が録画を保存し、机の向こうで立ち上がる。

今度その言葉が意味するのは、歌に感情を入れるための演出ではない。

史郎が自由へ告げる、本物のさよならだった。