売れない果樹園

葉室芹香が父・玄造を看ながら果樹園を守った七年間、兄の奏吾と姉の莉央は収穫期にも帰らなかった。

父が亡くれると、二人は葬儀翌日に開発会社を連れてきた。山裾の桃畑を宅地に変えれば三億円になるという。

「芹香には介護のお礼に百万円。残りは三人で、いや、長男の俺が多くもらう」

奏吾は父の古い実印を押した売買予約書まで用意していた。莉央は手付金五千万円のうち、自分の取り分で外車を注文したと笑う。芹香が「その土地は売れない」と言うと、二人は農業しか知らない妹の強がりだと決めつけた。

契約決済の日、果樹園の選果場に開発会社、銀行、司法書士が集まった。奏吾は代表相続人として署名し、残金を早く振り込めとせかす。

司法書士が登記簿を開いた。

畑は三年前、玄造個人から農地所有適格法人「葉室果樹園」へ現物出資されていた。法人の議決権株式は芹香が七十パーセント、残りは従業員持株会。玄造の遺産にあるのは、役員退職金と少数の無議決権株だけだった。

「実印がある。父さんが売ると決めたんだ」

「予約書の日付を見てください」

その日は玄造が集中治療室に入り、右手も動かなかった日だった。印影は、奏吾が葬儀の手続用に預かった実印と一致する。開発会社は契約を無効とし、虚偽説明と権限のない売買予約を理由に、手付金の倍額返還と調査費を請求した。

莉央が声を上げた。

「五千万円なんてもうないわ。兄さんが大丈夫って言ったから!」

奏吾は芹香を振り返る。

「お前が土地を売れば全部収まる。家族を助けろ」

芹香は選果場の窓を開けた。外では従業員が、父の名を付けた新品種の桃を箱詰めしている。玄造は介護を受けながら、畑を残すための法人化を一つずつ進めていた。

銀行員が芹香へ代表印を差し出した。

「代表取締役として、売却拒否をご確認ください」

芹香は押印した。開発会社の弁護士は同時に、奏吾と莉央へ請求書を渡す。

「果樹園は売れません。売れると思って使った五千万円だけが、お二人の借金として残ります」