夜明け前のホイロ
午前三時四十分、街のベーカリーで、麦倉日和はホイロの扉を開けた。バゲット生地が予定より早く膨らみ、指で触れた跡が戻らない。開店まで二時間。全部で百二十本あった。
新人は設定温度を指した。
「表示は合っています」
日和は扉の内側に付いた水滴を拭った。いつもより結露が多い。温度計を棚の上段と下段へ置くと、表示より六度高かった。センサーの周囲だけが冷気の吹き出し口に近く、庫内全体を低く読んでいたのだ。
店頭の予約表には、六時受け取りのサンドイッチ用が四十本、近所の喫茶店へ届ける分が三十本と書かれていた。形の悪いパンを混ぜれば数は揃っても、切った時の気泡で失敗が分かる。日和は焼く本数ではなく、どの生地がどの用途に耐えるかを先に分けた。
一度進みすぎた発酵は戻せない。日和は生地を全部冷蔵庫へ押し込まず、膨らみ方で三群に分けた。最も進んだ四十本はすぐ焼く工程へ回し、次の四十本は室温の低い作業台へ、残りは短いベンチタイムだけ取って冷蔵した。
生地を押した指跡の戻り方を三人で確かめ、天板の端に色違いの札を付けた。進んだ群を最初に焼く一方、まだ若い群は冷やし過ぎない。全てを同じ場所へ避難させれば、今度は後半が膨らまなくなる。
進みすぎた生地へ普段どおり深いクープを入れれば、内部のガスが一気に抜けて潰れる。日和は最初の群だけ刃を浅く走らせ、蒸気も弱めた。焼き上がった表面は少し穏やかだったが、棚へ並べれば形の差はほとんど分からない。二群目は通常どおりに戻り、三群目は開店後の追加で焼く分に回せた。
一本を割ると、気泡は潰れず縦に伸びていた。日和は見本を作業台へ残し、故障中の生地判断の基準にした。
五時半、配達担当が百二十本を数えた。
「機械を止めたのに、全部ありますね」
日和はホイロの電源に使用禁止の札を掛けた。「止めたから、残せたの」とだけ言った。
店のシャッターが上がる音がした。レジ前には朝一番の客が並び、その奥では食パンの生地が次の発酵を待っていた。