妹の友達を卒業する日

「妹の友達を濡らしたら、あとで怒られる」

矢来逸花へ傘を差し出しながら、小比賀令司は笑った。

令司の妹と逸花は高校からの親友だった。家へ遊びに行けば彼がいて、受験の送り迎えも、就職祝いの食事も、いつも「妹のついで」に世話を焼いてくれた。

二十七歳になった今も、令司は逸花を「いっちゃん」と呼ぶ。逸花が転職しても、一人暮らしを始めても、彼の中では制服姿のまま時間が止まっているようだった。

優しさの理由が妹にあるかぎり、安全だった。逸花が好きになっても、彼は年下の子どもを守っているだけだと諦められる。

その日は妹の結婚式だった。披露宴を終えて会場を出ると、激しい雨が降っていた。妹夫婦は先に車で出発し、送迎バスにはあと一席しかない。

「逸花、乗って。俺は歩く」

「ドレスの兄がずぶ濡れになったら、花嫁に怒られるよ」

逸花はバスを見送り、令司の傘へ入った。

駅までの道で、彼は何度も傘を逸花側へ傾けた。披露宴でもらった花びらが、彼の濡れた肩へ一枚だけ貼りついていた。自分の肩が濡れても気にしない。その優しさが、今日だけは苦しかった。

「もう妹はいないのに、まだ世話するんだ」

「いるだろ。結婚しても妹は妹だ」

「そうじゃなくて、ここに」

逸花は言いかけてやめた。式の余韻で気持ちが揺れただけだと思われたくなかった。

駅の庇へ着くと、令司はポケットから小さな封筒を出した。中には来週土曜のレストランの予約票。宛名は《小比賀令司・矢来逸花》。妹の名前はどこにもない。

「今日、妹に言われた。もう自分を口実にするなって」

令司は「いっちゃん」と呼びかけ、少し迷ってから言い直した。

「逸花さん。次は二人で会ってくれますか」

逸花は予約票を受け取り、代わりに彼の傘を持つ手へ自分の手を重ねた。そのまま指を絡め、駅の中へ一歩入る。

「雨、もう当たらないよ」

「それでも、離さないで」

令司はうなずき、つないだ手をコートの間へ隠すのではなく、自然に下ろした。

妹の友達を濡らしたら怒られる。

けれど次に妹が怒るとしたら、きっと、兄が逸花をいつまでも「妹の友達」と呼んでいたことだった。