客席ゼロ番

〈客席未定〉の解散ライブには、存在しない座席が一つあった。

チケット管理画面の最上段に〈0番・使用中〉と表示されている。会場は全席指定で、最前列は1番から始まる。ボーカルの柴垣衣都がスタッフへ尋ねても、誰も0番を見つけられなかった。

最後の曲〈座標未定〉が始まると、イヤーモニターに少女の声が入った。

「そこにいて」

衣都は妹の声だと思った。妹は一年前、バンドの熱狂的なファンに付きまとわれた末に姿を消した。警察は自発的な家出と判断し、所属会社は騒ぎを避けるため解散を勧めた。衣都は公演を続けるたび、客席のどこかに妹がいる気がして歌詞を忘れた。

イントロでは、座席番号を読み上げる合成音声が左右に飛ぶ。Aメロで会場図がスクリーンへ映り、1番から順に青く塗られていく。0番だけは図の外、ステージ下を示していた。

「そこにいて」

衣都が歌うと、床下から同じ声が返った。スタッフは低音の反響だと言う。だが返事は必ず半拍遅れ、衣都のブレスと同じ場所で息を吸う。妹が幼い頃からしていた癖だった。

サビで0番の表示が点滅し、会場の無線機器が一つ接続された。端末名は、妹が失踪日に持っていたスマートフォン。電池残量は一パーセント。位置情報は舞台下の旧昇降機室を指している。

最前列の男が立ち上がった。妹へ何百通もメッセージを送っていたファンだった。彼は「演出をやめろ」と叫び、出口へ向かう。衣都は歌いながらステージ中央の非常レバーを引いた。

床がゆっくり上がる。

昇降機の籠には誰もいなかった。代わりに、妹のスマートフォンと、男が撮影した監禁動画の記録媒体が置かれていた。最新の動画では、妹が別の施設へ移される直前、会場の古い保守回線へ位置情報を予約送信している。

最後の一音で、画面に次の座標が表示された。警察が会場を出る。男は警備員に囲まれ、動けない。

衣都は彼を指さした。

「そこにいて」

妹へ動かず待てという言葉ではない。救出先を知られた犯人を、0番の証拠の前から一歩も逃がさないための命令だった。