小さな一杯分

鴨井釉子は珈琲店「天秤」で、昇進の辞退文を整えていた。

責任者になれば、できない仕事まで抱えることになると思っていた。前任者が深夜まで返信し、休暇中も電話へ出る姿を見ていたからだ。役職とは、器からあふれるまで注がれることだと考えていた。

辞退文には、自信がないとは書かず、家庭の事情とだけ書いていた。自分の希望まで、理由の外へ隠していた。

二十七歳で課の責任者になるのは早すぎる、と自分でも思った。会議では年上の男性社員に声をかぶせられ、失敗すれば「やはり若いから」と言われる。上司は今日中に返事がほしいと言った。

辞退すれば、しばらく平穏でいられる。その代わり、ずっと提案してきた勤務表の改善も、誰かの判断を待つことになる。

店主は古い天秤で豆を量った。左右の皿がぴたりと止まるまで、一粒ずつ足し引きする。そして出てきたのは、親指ほどの持ち手がついた小さなデミタスカップだった。

釉薬は縁から薄くなり、底には細かな匙傷が重なっている。何十年も使われているのに、容量は普通のカップの半分もない。

店主は細いポットから、縁の少し下まできっちり注いだ。一滴もあふれさせず、余った分を別の器へ逃がすこともしない。量った分が、その小さな一杯にちょうど収まった。

釉子は辞退文を閉じた。代わりに承諾の画面を開く。ただし、そのまま押す気にはなれなかった。

〈お引き受けします〉のあとへ、二行を加える。夜間連絡の当番制。欠員一名の補充。どちらも以前から必要だと考えていた条件だった。

会計で店主は、伝票の品名欄へ「珈琲 一杯」と書いた。小さいから半杯とは書かない。金額も値引かれていなかった。

釉子が硬貨を置くと、店主は一枚ずつ数え、余分な一枚を指先で押し戻した。受け取りすぎない手つきだった。

席へ戻り、釉子は承諾文を読み直す。若さを補う言い訳は入れなかった。できる量と、必要な支えだけを明記した。

送信すると、空のデミタスカップの底が見えた。小さい円の中に、黒い天秤が水平に描かれていた。