小さな食堂の本店
「実家が食堂だからって、料理上手とは限らないのね」
柴崎美代は、杏里が作った煮物を一口食べて箸を置いた。
杏里の実家は、駅裏にある看板も小さな店だった。美代はそれを貧しい個人食堂だと思い込み、親戚の前でも「庶民の味しか知らない嫁」と笑った。店には値段の書かれていない献立が一つだけあり、政財界の客も祖母の前では同じ椅子に座る。杏里は幼いころから仕込みを学び、結婚前には海外店舗の立ち上げを任されていたが、美代は一度も話を聞かなかった。
その美代が、自分のカフェを開くと言い出した。場所は一等地の新築ビル。杏里には無給で厨房を任せるつもりだった。資金の多くは息子夫婦の貯金を当てにし、店名には自分の名を大きく入れる。杏里が衛生管理や原価について尋ねても、「食堂育ちが経営を語らないで」と退けた。
「あなたの家の田舎料理も、少しくらい役に立つでしょう」
開店前日、ビルの管理会社と食材業者がそろって最終確認に来た。美代がオーナー然として指示を飛ばしていると、全員が入口に立つ杏里へ一礼した。
「橘堂本部長、テナント確認をお願いいたします」
美代が吹き出した。
「本部長? この子は専業主婦よ」
杏里は結婚前の名刺を差し出した。
『橘堂フードホールディングス 創業家室長』
橘堂は国内外二千店舗を展開する外食企業だった。駅裏の小さな食堂は、創業者である杏里の祖母が今も厨房に立つ『一号本店』で、予約は半年先まで埋まっている。美代が高級料理だと褒めていたホテルのメニューも、橘堂の料理研究所が監修していた。
管理会社の責任者が契約書を開いた。
「このビルの所有会社も橘堂グループです。柴崎様の出店審査は、杏里様がご家族だからという理由で仮承認されていました」
美代は急に杏里の肩へ手を伸ばした。
「まあ、家族でお店を盛り上げましょう。あなたが店長でも――」
杏里は一歩下がった。
「料理をけなした人の店で、祖母の味は出せません」
責任者が赤い付箋の箇所を指した。
「では仮承認を取り消します。最終決裁権者は橘堂杏里様です」
開店祝いの花だけが並ぶ店内で、美代の『オーナー』という肩書が消えた。