少し傾いた蔵書印
鳴瀬璃子は、閉店を告げる曲が流れ始めても、古書喫茶「頁」の会計台から離れられなかった。
ガラスの中に、店で使われていた蔵書印が置かれている。丸い木の持ち手に、黒ずんだ真鍮の台座。「珈琲と本 頁」と鏡文字で彫られた、たった一つの印だった。店の閉鎖に合わせ、備品まで売るらしい。
璃子は昼休みに書いたエッセイの応募画面を開いていた。三年間、匿名の投稿サイトでは毎週文章を出してきた。だが雑誌の公募には本名が必要だ。作品欄は埋まっているのに、著者名の枠だけが白い。
名前を出せば、職場の人に見つかるかもしれない。家族に、そんなことをしていたの、と笑われるかもしれない。匿名なら、評価されないのは文章だけで済む。本名なら、自分ごと落とされる気がした。
「この印、まだ押せますか」
店主は引き出しから朱肉を出し、蔵書印を一度だけ押した。試し紙ではなく、会計に使う茶色い紙袋の中央へ。
赤い円は、ほんの少し右へ傾いた。店主は眉を寄せたが、押し直さなかった。二重にすれば、かえって読めなくなるからだ。乾くまで紙袋を立て、レジを打つ。
璃子はそのまま買った。
店主は印面の朱を布で丁寧に拭い、木箱へ収めた。傾いた店名の紙袋は捨てず、口を折って包装に使う。真っ直ぐではなくても、文字は一つも欠けていなかった。
店内の古時計が九時を打つ。店主は一打ごとに照明を消していき、最後に会計台のランプだけを残した。璃子の画面の白い欄が、そこだけ強く光る。
蔵書印は、持ち主を隠すためのものではない。誰の場所にあった本かを、消えにくくする印だ。
璃子は著者名の枠へ、鳴瀬璃子、と入力した。変換された文字は、画面の中で少しも傾いていない。だから送信前に、自分で一度だけ深く息をした。
応募ボタンを押す。
店主は結果を尋ねず、乾いた紙袋の赤い円を指で確かめてから渡した。璃子はその傾きを手のひらでなぞった。
きれいに押せなかった一度目も、その店の正式な印だった。
ならば、怖がりながら送った最初の一編も、きっと自分の文章でいい。