屋根に上がらないで

台風の夜、損害保険の事故受付に稲見琴乃の回線がつながった。

「瓦が二枚飛びました。今からブルーシートを掛ければ、被害を小さくできますよね」

男性はすでに脚立を出し、雨具を着ていた。保険でどこまで出るか、免責はいくらかと矢継ぎ早に尋ねる。

琴乃は金額の説明を後回しにした。

「屋根には上がらないでください。今、外にいますか」

返事の直後、風がマイクを打った。男性は庭にいた。琴乃はまず家の中へ戻ってもらい、窓から離れた場所へ移動するまで通話を続けた。

事故受付では、被害を広げないための応急措置を案内する。だが、それは安全にできる範囲に限る。濡れた屋根へ本人を上げることではない。琴乃は提携業者の緊急訪問を探したが、暴風域では作業できない。そこで、今夜は屋内で雨水を受ける方法だけに絞り、天候が落ち着く時刻に合わせて朝一番の点検枠を確保した。

男性は不満そうだった。

「放っておいたせいで天井まで濡れたら、保険が出ないんじゃないですか」

琴乃は、危険な作業をしなかったことを理由に補償がなくなるわけではないと説明し、飛んだ瓦の場所や雨漏りの有無を室内から撮れる範囲で記録してもらった。事故受付の時刻が、何もしなかった証明ではなく、安全な判断をした記録になる。

琴乃は、室内に落ちた水を拭く際も、膨らんだ天井板の真下には入らないよう伝えた。写真は安全な位置からでよく、撮れない場所は文章で残せばよい。証拠を増やすために危険へ近づく必要はない。通話中に決めた内容を短いメールにもまとめ、家族が帰宅したとき同じ行動を取れるようにした。

夜明け前、業者から現場到着の連絡が入った。庭には倒れた脚立が転がっていたという。

男性が小さな声で言った。

「上っていたら、あれと一緒でした」

琴乃は免責額の説明を終え、受付番号を伝えた。

通話を閉じた途端、別の地域から着信が入る。

「雨どいが外れました。今、二階の窓から手を伸ばせば届きます」

琴乃はまた、補償より先に居場所を聞いた。