左利きの署名
地紙啓介刑事は、萱場達臣警部補へ一枚の受領書を差し出した。
「旧証拠の閲覧確認です。ここへ署名を」
萱場は左手でペンを取り、名前の最後を鋭く上へ跳ねた。
地紙は、その紙を十七年前の自白調書の横へ並べた。佐武原忍が書いたとされた署名も、同じ角度で跳ねている。文字の間隔、筆圧の抜け方、《原》の縦画に二度触れる癖まで一致した。
萱場は比較されていることに気づき、笑みを消した。
「偶然だ。署名なんて似る」
地紙は逮捕時の診療記録を開いた。佐武原は左橈骨を骨折し、肩から指先まで固定されていた。調書作成日は翌日。左手で署名できる状態ではない。
「本人は右手で書いたと言っていたはずだ」
「鑑定では、この署名は左利きの運筆です」
「じゃあ鑑定が間違いだ」
萱場は受領書を奪おうとした。地紙が手で押さえる。
当時、萱場は取調官。地紙は新人として廊下で待機し、歓声が上がった時に缶コーヒーを配った。佐武原の自白で班は表彰され、萱場は昇任した。今、偽造を認めれば、地紙自身の経歴も「捏造班の一員」として残る。
「お前を刑事にしたのは誰だ」
「あなたです」
「なら分かるだろう。佐武原を出せば、被害者遺族はもう一度殺される。署名一つで正義を壊すな」
地紙は自白調書の末尾を見た。署名の上には、《自ら進んで供述した》とある。筆跡鑑定人は署名だけでなく、本文の訂正印脇にある三文字も萱場の運筆と結論づけた。佐武原が書いた文字は、調書のどこにも一つもなかった。萱場は班の功績で警察功労章を受け、今夜も若手向け講話で《自白は犯人の良心だ》と話す予定だった。廊下には、その講話を待つ新人たちの笑い声が響いている。地紙の机にも講話資料が配られ、《供述は刑事と被疑者が共に作る真実》という一節へ赤線が引かれていた。今なら、その言葉の意味が嫌というほど分かった。
彼は現在の受領書、調書、診療記録を透明袋へ入れた。封印欄に署名し、萱場へペンを返す。
「正義を壊した署名が、もう一つ増えました」
地紙は袋を監察官の机に置き、内線で再審係を呼んだ。