後悔を一匙

 銀の甲虫は、後悔を食べると、口から出た言葉を一つだけ世界から消す。

 聞いた者の記憶からも、壁に残った響きからも消える。ただし後悔も同時になくなるから、二度目はない。

 オディールは厨房の床に座り、甲虫をスプーンへ乗せた。

 外では嵐が屋根瓦を剥がしている。妹のマノンが家を飛び出してから、もう半刻が過ぎていた。

『あなたがいると、何もかも駄目になる』

 怒鳴ったのは、焼き上げた祝祭菓子を妹が落とした直後だった。

 明日の納品に間に合わなければ店は契約を失う。父から継いだ店を守るため、オディールは三晩眠っていなかった。

 けれどマノンが割ったのは一台だけだ。作り直せた。

 妹の顔が割れ物のように強張った瞬間を、オディールは何度も思い返した。

「消したい言葉を言え」

 甲虫が翅を擦る。

「食べ終えれば、おまえはそれを悔やまなくなる」

 言葉が消えれば、妹は傷ついた理由を忘れる。

 しかし後悔まで消えた自分は、同じ刃をまた口にするかもしれない。痛みは、二度としないと覚えておくための棘でもあった。

 オディールは立ち上がり、粉袋の裏に一文を書いた。

 疲れているときほど、愛する人に正しさをぶつけないこと。

 書いた文字は後悔ではない。明日の自分への命令だ。

 甲虫が食べても残る。

 玄関の鈴が激しく鳴った。

 近所の少年が、川沿いでマノンの外套を見つけたと叫ぶ。増水した水路は、もう石段を呑み込んでいた。

 オディールは甲虫を握り、雨へ飛び出した。

 川辺には妹がいた。流された子犬を抱え、崩れかけた柵の向こうで動けなくなっている。

「来ないで! 足場が――」

 濁流が石をさらう。

 オディールは甲虫へ例の言葉を囁いた。

 銀の顎が、胸に刺さっていた後悔へ噛みつく。記憶の中で、自分の声が薄くなる。向こうのマノンが瞬きをした。

「どうして泣いてるの?」

 妹はもう、言われたことを覚えていない。

 後悔が最後まで消える前に、オディールは柵へ手を伸ばした。

「あなたがいると、何度でもやり直せるって言いたかった」

 甲虫が一匙ぶんの痛みを飲み干した。

 その言葉が本心かどうかを確かめる棘は、もう胸には残っていなかった。