忘れ物は君の名前

「忘れ物ない?」

祢津巴がシェアハウスを出る準備をするたび、久住岳は同じことを聞いた。

二年間暮らした家を離れる理由は、職場に近い部屋が見つかったから。それだけだ。岳とは恋人ではない。夜食を半分にし、熱を出せば薬を買い、洗濯物を取り込む相手でも、呼び名は同居人のままだった。

引っ越し当日、岳は段ボールを運び、空になった巴の部屋を何度も確認した。棚のピアスも、冷蔵庫のヨーグルトも、玄関の傘も、全部新居へ移った。

最後の終電に間に合うよう、二人で駅へ向かう。新居は五駅先。今日から帰る方向は同じでも、帰る家は違う。

「鍵、返すね」

巴が合鍵を差し出すと、岳は受け取った。金属の音が、思ったよりきっぱりしていた。

ホームに電車が着く。岳は巴のキャリーケースを乗せ、ドアの外へ下りた。

「岳は乗らないの?」

「俺の家、ここから歩ける」

当然だった。巴は笑って手を振ろうとした。そのとき、岳がポケットからもう一本の鍵を出した。巴の新居の鍵だった。荷物の受け取り用に一日だけ預けていたものだ。

「忘れ物」

「それ、返して」

「日曜に返す」

岳はスマホを見せる。日曜午前九時、《巴の家で朝ごはん》。買い物リストには、岳が使うマグカップまで入っている。

巴はドアの隙間から手を伸ばし、鍵ではなく岳の指をつかんだ。

「同居人じゃなくなったのに、来るの?」

「同居人じゃないから行く」

発車ベルが鳴る。岳は巴の手を離さず、駅員に促される直前で電車へ飛び乗った。今夜は新居の前まで送り、歩いて帰るという。

巴は連絡先の《久住・一階》《岳》へ変えた。

「忘れ物ない?」

その問いに、巴はつないだ手を持ち上げる。

新居の最寄り駅で降りると、岳はスーパーへ寄り、二人分の朝食を買った。泊まるわけではないのに、明朝また来る手間を惜しまなかった。巴は合鍵を返してもらわず、白い札の《荷物用》を消して、細い字で《岳》と書き直した。

「名前を置いてきた。日曜から、ちゃんと呼ぶね」