思い出の栞
古書店で買った銀色の栞には、年月日を書く欄があった。
本へ挟んで眠ると、その日の記憶へ十分だけ戻れる。
ただし戻るたび、今日起きたことを一つ忘れる。
母を亡くした女性は、子どもの頃の夏休みを書いた。
目を閉じると、台所に母がいて、麦茶を注いでいた。
声も匂いも本物だった。
十分後、現在の寝室へ戻る。
その日買った牛乳の置き場所を忘れていた。
次は高校の卒業式。
母が人混みの中で大きく手を振った日。
戻ると、職場で受けた電話の内容を忘れた。
小さな忘れ物なら構わないと思った。
母に会えるなら安い代金だった。
結婚し、娘が生まれても栞を使った。
育児で疲れた夜、母に「よくやってる」と言ってほしくて過去へ戻った。
しかし母は当時の母で、未来の娘を知らない。
それでも顔を見るだけで安心した。
使う回数が増えると、現在の穴も増えた。
娘が初めて歩いた日。
夫が昇進を報告した夕食。
家族で見た虹。
女性は写真で知っているのに、自分の記憶として持っていなかった。
娘の発表会の日、女性は朝から不安だった。
母がいれば、髪を結い、衣装を直してくれただろう。
開演前、栞を鞄へ入れ、会場の隅で眠った。
過去の母は、幼い女性の髪を結んでいた。
「じっとして」
「痛い」
「きれいにするには少し我慢」
十分後、会場で目を覚ました。
舞台では拍手が起きていた。
娘の出番は終わっていた。
夫が撮影した映像を見せた。
娘は途中で台詞を忘れ、深呼吸して最後まで続けた。
終演後、娘は尋ねた。
「見てた?」
女性は「見てた」と言えなかった。
母に会うため、娘の今日をまた一つ失った。
帰宅後、銀色の栞へ母の命日を書いた。
最後に別れた日へ戻ろうとした。
だが挟まず、本を閉じた。
栞を娘へ見せ、すべて話した。
娘は怒り、泣き、
「おばあちゃんに会いたいのは分かる。でも、私のことも覚えてて」
と言った。
女性は栞を古書店へ返した。
店主は受け取らず、
「忘れたい人が持つ物ではありません」
と言った。
そこで栞を庭へ埋めた。
銀色は土の中でも光ったが、掘り返さなかった。
母の記憶は、年月とともに少しずつ薄れた。
声の高さを思い出せない日もある。
代わりに娘の発表会は、映像だけでなく、見逃した自分の後悔ごと覚えている。
過去を忘れないことより、今日を失わないことの方が、亡くなった人から受け取った時間を長くするのだと思った。