患者確認は一度だけ
病院の中で人が自分のものだと認識している姓名を呼ぶと、その人の寿命が一時間減る。取り違え防止のため、看護師は各勤務帯に一度だけフルネームを呼び、返事の代わりに寿命票の青いランプを確認する。二度目からはベッド番号だ。
救急病棟の笠松隆真は、午前三時に運ばれた身元不明者の顔を見て、父だと分かった。十年前に家を出たときより痩せ、顎に白い傷が増えていた。財布には「柞原宗吾」という保険証が入っている。再婚して姓を変えたらしい。
子どものころも父は隆真を名で呼ばず、「坊主」で済ませた。家族写真の裏にだけ、二人の姓名が並んでいた。
検査では緊急手術が必要だった。だが同意端末は、本人確認の呼名が済むまで開かない。
「柞原宗吾さん、と呼べばいい」
当直医は言った。隆真は首を振った。父は家を出る前まで笠松宗吾だった。どちらを本名として寿命票が認識するかは、本人が返事をしなければ分からない。二つの姓をどちらも自分のものとして覚えていれば、二時間を失わせる。
「家族なら分かるだろ」
「家族だったのは十年前です」
ベッドの男が薄く目を開けた。
「番号でやれ」
「手術できない」
「一時間くらい、放っとけ」
父は昔から、金も時間も余っているふりをした。隆真の卒業式にも、母の葬儀にも来なかった。呼ばれなかった十年を、一時間で埋める気はなかった。
それでも隆真はベッド脇に立った。
「柞原宗吾」
反応はない。寿命票も暗い。
次を呼べば、さらに一時間減る可能性がある。当直医が止める前に、隆真は古い姓を続けた。
「笠松宗吾」
男の指が動き、青いランプが点いた。同意端末が開く。
手術室へ向かう途中、父は酸素マスクの下で、隆真の名を呼びかけてやめた。呼べば息子の寿命が一時間減ると、意識の薄い頭でも分かったらしい。代わりに「三番」と言った。隆真の胸ポケットにある職員番号だった。
朝、空になったベッドには、切り取られた患者用リストバンドが残った。新しい姓の上から青い線が引かれ、裏側に、古い姓の「笠松」が二度、並んで書かれていた。隣には未使用の本人確認シールが一枚、剥離紙から半分だけ浮いていた。