指輪は約束しない
宮守芙季は、父と向かい合って夕食を取っていた。
テーブルの中央に、母の結婚指輪が置かれている。小さなベルベットの箱は、煮魚の皿より重く見えた。
「お母さんは、芙季が結婚するときに使ってほしいと言っていた」
父は三度目になる話をした。母が亡くなってから、指輪は父の引き出しと芙季の鞄を行き来している。持ち帰るたび、母の望んだ結婚が予定表へ書き込まれるようだった。
最初に渡された夜、芙季は断れず自宅へ持ち帰り、机の奥へしまった。母の命日に父から「磨いたか」と電話が来て、指輪が保管ではなく宿題になっていると気づいた。翌週返すと、父はまた誕生日の包みに忍ばせた。
今夜、箱の下には母が切り抜いた式場の広告まで置かれていた。父は「一緒にあったから」と言ったが、偶然ではないことを二人とも知っていた。
芙季は広告を指輪の箱へ戻さず、紙の回収袋へ入れた。父は止めなかった。指輪と予定表を同じ形見にしないという、最初の小さな分け方だった。
「私は使わない」
「今は相手がいなくても、いつか気が変わる」
母も同じ言い方をした。進学も仕事も、一人暮らしも、芙季が選ぶと「いつか分かる」と未来の自分を母の味方にした。
芙季は箱を父の前へ押した。
「これはお父さんとお母さんの約束の品だよ。私の約束にはしない」
父の箸が止まった。
「売れというのか」
「お父さんが残したいなら残して。手放したいなら手放して。でも、私の結婚のために預けないで」
父は指輪を見つめたまま、「お母さんが悲しむ」と言った。
芙季は煮魚の骨を皿の端へ置いた。
「悲しませない役を、死んだあとまで続けられない」
言い終えると、胸が冷えた。けれど謝らなかった。
食事の終わり、父は箱を自分の上着のポケットへ入れた。
「しばらく俺が持つ」
「うん」
それは和解でも決着でもなかった。ただ、持ち主が一度正しい場所へ戻った。
芙季は空になったテーブルの中央へ湯のみを置いた。指輪のない丸い跡が残っていたが、そこへ何を置くかは、もう芙季の未来と結びついていなかった。