控室の非常口
蒔田逸花は、人前に立つのが好きだった。
学生時代の発表も、会社の表彰式も、マイクを渡されれば緊張より先に笑える。だから親友の折原七海が、挙式直前に非常階段へ逃げた理由を、最初は「よくあるマリッジブルー」だと思った。
防火扉の向こうで、七海は三段目に座っていた。胸元を押さえ、息を短く吸っている。新郎に不満があるわけではない。結婚をやめたいのかと聞いても首を振る。ただ、百人の前で誓いの言葉を言う場面を想像すると、喉が閉じるという。
「リハーサルでは平気だったじゃん」
逸花が言うと、七海は苦しそうに笑った。
「平気なふりのリハーサルだった」
逸花には、その違いがよくわからない。怖くても壇上へ出れば終わる。終われば達成感が来る。それが自分のやり方だった。
けれど七海の背中に手を置こうとして、逸花はやめた。触れられるのもつらそうだったからだ。代わりに、ドレスの背中を締めている紐をスタッフに頼んで緩めてもらった。ペットボトルの蓋を開け、ストローを差す。式場の進行表には、開始を十五分遅らせる赤い線を引いた。
新郎には逸花から電話をした。「説得して連れていく」とは言わず、「七海が話せるまで、誰も階段へ入れないで」と伝えた。
七海の呼吸が少し長くなる。逸花は一段空けて隣に座った。沈黙が苦手な逸花と、沈黙が必要な七海。二人とも正しい時間の使い方は違う。
十分後、七海は言った。
「今日は、できない」
逸花は式を縮める案を三つ知っていた。参列者なし、誓いの言葉なし、写真だけ。どれも口にせず、会場担当者の番号を表示したスマートフォンを渡した。
七海は自分で中止を告げた。逸花はその間、非常口の前に立ち、親族が入ってこないよう扉を押さえた。
電話を切った七海は、階段を下りると言った。エレベーターなら一瞬なのに、一段ずつ確かめたいらしい。
逸花は先に降りず、隣の段へ足を置いた。
「一、二」と七海が数える。
逸花も同じ数を声にした。理解したからではない。速度を合わせると決めたからだ。
二人は三階分を数え、最後の防火扉を一緒に押した。