新聞紙が切れるまで
父は大根を切れず、まな板の上で割っていた。
余命を告げられた日の夕方、実家へ戻った戸高志津は、三徳包丁を取り上げた。
実家へ戻ると、父は台所で大根を切っていた。切るというより、上から体重をかけて割っている。包丁の刃は白く曇り、大根の断面には細い亀裂が走っていた。
「今日くらい出前にするか」
父は診察結果をまだ知らない。志津の顔を見て何か察したのかもしれないが、聞かなかった。
「それ、貸して」
「腹減ってるだろ」
「研いでからでいい」
砥石は流しの下、米びつの横にある。志津が大学へ出てから、誰も使っていないらしく、箱には油染みができていた。蓋を開けると、砥石の一辺だけが深く減っている。父は使わないと言いながら、以前は同じ場所ばかり当てていたらしい。水へ沈めると、砥石の中から細かな泡が上がる。
十分待つあいだ、父は大根をまな板の上へ置いたまま、テレビの音を少し大きくした。ニュースでは明日の天気を伝えている。晴れ、降水確率十パーセント。志津はその数字だけを覚えた。
砥石を濡れ布巾の上へ置き、減った面が偏らない向きにする。包丁の背を少し持ち上げ、手前へ引く。しゃり、しゃり、と乾いた音がする。角度が高すぎると父が言いかけたので、志津は見ずに「知ってる」と返した。
右側を十回、左側を十回。途中で数が分からなくなり、最初からやり直した。刃先に黒い研ぎ汁がたまり、指で触れると滑らかだった。
父は食卓へ新聞紙を広げ、一枚を細長く切って渡した。いつも刃の試しに使う。志津が包丁を当てると、最初は紙が押されて折れた。
「まだだな」
父の声に、少しだけ安心が混じった。直すものが残っている声だった。
志津はもう一度砥石へ戻した。今度は力を抜き、刃全体を同じ速さで動かす。病院でも、力を抜いて聞いてくださいと言われたが、そんなことはできなかった。包丁ならできる。
砥石の表面も水で流し、包丁の刃を洗う。新しい新聞紙を父に持たせてもらう。志津は上端へ刃先を置き、そのまま下へ引いた。
新聞紙は音もなく二つに分かれた。