旧姓の予約

瓜生咲は、自分のホテルに旧姓の「紀ノ川咲」で予約を入れた。

夫の瓜生晴久は総支配人だった。咲が祖母から株式を相続して以来、「経営は現場を知る俺に任せろ」と言い続け、咲を式典にも会議にも呼ばなくなった。

その夜、咲が最上階のバーへ入ると、晴久は取引先の女性と窓際にいた。

「妻は名前だけの株主だよ。次の総会で俺に全部任せることになる」

女性が笑う。

「じゃあ、そのときは私を役員にしてね」

晴久は彼女の指に触れた。

咲は声をかけず、翌朝の臨時株主総会へ向かった。

会議室で晴久は新しい組織図を配った。最上段には「代表取締役 瓜生晴久」、その横に女性の名がある。

「ホテルを成長させるには、所有と経営の一体化が必要です。妻から委任状を預かる予定です」

「予定、なんだね」

咲が入ると、晴久の手からペンが落ちた。

「どうしてここに」

「株主だから。議決権の六十二パーセントを持つ」

晴久は咲を廊下へ連れ出そうとしたが、監査役が「株主への退席強要は議事録に残します」と止めた。

「家庭の話を会社へ持ち込むな。昨夜見たことなら誤解だ」

「家庭の話はしないよ。委任するつもりがないと伝えに来ただけ」

咲は自分で作成した議案を配った。代表取締役には長年の副支配人を選任し、咲は会長として監督に回る。晴久との婚姻関係については、一文字も書かれていない。

晴久が笑い直した。

「俺なしで現場が回るわけがない。従業員は俺についてくる」

副支配人が立ち、出席者へ頭を下げた。

「全部署の責任者から、新体制への同意を得ています」

晴久の隣に座っていた女性が、組織図を裏返した。

「役員の話、もうないの?」

咲は封筒を机に置く。中には離婚協議の通知と、社宅として貸していた客室の明け渡し案内が入っていた。

全出席者による正式な記名採決が始まった。

咲の六十二パーセントに、従業員持株会の二十一パーセントが加わる。

議長が木槌を一度鳴らした。

「瓜生晴久氏の解任議案は、賛成多数で可決されました」