昨日の住所
海老名啓介は二十三歳の自転車旅行者で、旅の経路を毎晩ブログに上げていた。雨に追われ、地図に載らない筧村の簡易宿へ入った。
帳場には住所欄だけの宿帳があった。氏名も年齢も不要だという。管理人は、旅人の住所を一晩預かれば「帰る方角」が村に残る、と説明した。
ブログ下書きには、聞き取った禁忌をそのまま打った。
《住所欄に、昨日泊まった場所を書いてはいけない》
啓介は前夜、河川敷で野宿していた。固定住所を書くのが嫌で、昨日の場所なら嘘ではないと考えた。宿帳に「御影川左岸・橋脚下」と一度だけ記した。
夜、天井から車の走る音がした。橋の下で聞いたのと同じ振動だった。窓を開けると、軒先の上を濁った川が流れている。閉めれば静かな山村へ戻った。
朝、管理人はいなかった。啓介は宿を出て、三日かけて東京へ帰った。
スマホの移動履歴を見ると、帰宅地点が毎日一日ずつ遡っていた。今日は昨日のキャンプ場。翌日はその前の道の駅。自宅の星印も地図上を逆走し、筧村へ近づいている。
サポートへ履歴を送ると、《ホームは直近の宿泊地から推定されます》と返った。
ブログには投稿していない記事が一日一件ずつ増えた。題は《昨日へ帰る》。写真には啓介の背中が写り、撮影地点は常に一日前の宿泊地だった。読者コメントは「明日はどこにいましたか」と過去形で尋ねてくる。自転車の走行距離も逆に減り始め、整備アプリは東京へ着いた日を出発日として記録した。筧村の宿泊だけが、履歴上では未来の日付になっている。
ブログ管理画面のプロフィールも《昨日在住》へ変わり、連絡先には一日前の自分の番号が登録された。発信すると昨日の自分が出た。
一週間後、配車アプリで会社までの車を呼んだ。到着した運転手から電話がある。
「海老名さん、指定場所にいますけど、橋脚しかありません」
啓介の部屋の窓外には、確かに東京の朝が見える。だがアプリの青い現在地は御影川の中だった。
ナビ音声が告げた。
「昨日の住所に到着しました。明日の自宅へ徒歩で移動してください」