普通席の女王

国際線の最後尾、中央席に、灰色のスーツを着た女性が座っていた。志摩奏恵。預け荷物はなく、小さな布鞄だけを膝に置いている。

離陸前、上級会員が席を替えろと要求した。客室責任者は女性の搭乗券を見て、窓側の壊れた読書灯の席へ移るよう告げた。

「こちらのお客様は年間百回ご利用です。ご協力いただけますね」

「私は指定した席に座っています」

「普通運賃のお客様には、柔軟にお願いしています」

女性はそれ以上争わず移動した。

移った先では、前の座席の下から非常用具の封印が外れているのが見えた。彼女は呼出ボタンで知らせたが、責任者は「着陸後に整備が見ます」と布をかぶせただけだった。さらに、耳の遠い乗客へ早口で避難案内を繰り返し、理解できない方が悪いように肩をすくめた。志摩はその乗客にはゆっくり身振りで説明し、自分の手帳に座席番号を書いた。

責任者は上級会員へだけ機内販売の限定品を確保し、後ろの客には完売と告げた。志摩は品物ではなく、同じ運賃表の客へ違う説明をした時刻を書き足した。私は隣席から、彼女が読書灯の故障番号、通路の荷物、乗務員の案内時刻を小さな手帳に書くのを見た。

機内食では、アレルギー対応食が別の客へ配られかけた。女性が静かに指摘したが、責任者は笑顔のまま言った。

「乗務員の仕事に詳しいふりをなさらないでください」

女性は布鞄から薬を出し、水だけを頼んだ。私は気まずくなり、自分の未開封のパンを差し出した。彼女は礼を言い、半分だけ受け取った。

着陸後、機長から「本日は特別なお客様が搭乗されています」と放送が入った。責任者は上級会員の方を見て微笑んだ。

だが搭乗口で待っていたのは、本社社長、労務担当役員、安全統括部長だった。三人は最後尾から歩いてきた女性へ一礼する。

社長が乗務員を集めた。

「本日付で就任された当社取締役会議長、志摩奏恵会長です。全路線の匿名サービス監査を自ら開始されました」

志摩は故障した読書灯を一度見上げ、手帳を閉じた。

「最初の監査報告は、この便だけで十二項目です」