暗転一秒前
楡井環は、市民劇場の照明助手だった。
開演前には客席から舞台まで歩き、灯体の熱と吊り物の音を一つずつ確かめた。台本より配電図を長く眺めるので、演出家の波多野は「舞台の空気が読めない」と決めつけていた。
本番前日の通し稽古。
見せ場は、巨大なシャンデリアが降り、火花の演出と同時に舞台が青く染まる場面だった。
環は操作卓の実行ボタンを押さなかった。
「何をしてる。暗転が一秒遅れたぞ」
「第三系統の電流が上限を超えています。火花装置を動かせません」
波多野は客席から上がってきた。
「昨日は動いた。君は本番が怖いだけだ」
「安全幕の信号も切れています。昨日の通しでは、第三系統だけ復帰時刻が七秒遅れていました」
「だから助手止まりなんだ。代われ」
波多野が卓へ手を伸ばすと、環は主電源を落とした。
劇場が真っ暗になる。
怒鳴り声の中、非常灯が点いた。
同時に天井で、乾いた金属音が三度した。降下装置の固定金具が熱で変形し、シャンデリアが数センチ沈んで止まっている。
そこへ消防検査官の辰巳が入ってきた。
抜き打ち検査だった。環は朝、異常値を正式な窓口へ報告していた。
辰巳は配電盤を開ける。
本来なら異常時に電流を遮断する安全回路が、細い銅線で直結されていた。火花装置を予定どおり動かせば、固定金具の上で過熱が続く。
「誰がこんなことを」
劇場支配人が尋ねる。
波多野は黙った。
操作履歴には、前夜に演出家用カードで点検モードを解除した記録があった。安全装置が働くたび演出が止まるため、波多野が解除させたのだ。
稽古を止められたくなかったのだ。
辰巳は舞台使用停止の札を波多野の演出台へ貼った。
それから環の報告書へ目を通す。
「異常の発見、停止、通報。すべて規程どおりです」
支配人は出演者とスタッフ全員に稽古中止を伝えた。波多野が抗議する間に、契約書の安全違反条項も確認された。
支配人は、波多野が首から下げていた赤い統括用ヘッドセットを外した。
暗転した舞台の中央で、そのヘッドセットが楡井環へ渡された。