棚田が数える昼休み
イズナの棚田には、五十七枚の田がある。
昔の彼女なら、五十七という数字を見ただけで作業表を作っただろう。どの田から刈り、何人を割り当て、何分の遅れまで許容するか。勘定奉行所で二十年、数字は人を追い立てる鞭だった。
今は違う。
水路に置いた小さな水車が回るたび、泥の人形が一列ずつ起き上がる。稲穂の色を確かめ、鎌で刈り、束ね、乾燥小屋へ運ぶ。五十七枚すべての進み具合は、縁側の木札に丸印で示される。
イズナは丸印を数えなかった。
膝には猫が乗っている。手には冷たい麦茶。玄関の柱には、奉行所時代の黒い上着が掛かったままだ。背中の縫い目が裂けているのは、三日眠らず決算を合わせた朝、椅子から立てなくなって担がれたせいだった。
木札が一度だけ鳴る。
《本年第一回収穫、完了。米問屋より代金受領》
冬を越せる。屋根も直せる。けれどイズナが最初に確認したのは残高ではなく、木札の下に浮かんだ《次回作業、十二日後》の文字だった。
十二日、何もしなくていい。
奉行所では、仕事が終われば次の仕事を探すのが有能だとされた。ここでは終わったものは、本当に終わる。木札の余白に隠れた命令も、夜中に増える数字もない。その事実だけで、縁側が広く見えた。
そこへ奉行所の伝書蝶が舞い込んだ。
『特別監査が入った。帳尻が合わぬ。今すぐ来られよ』
元上役の命令口調は変わっていない。
イズナは猫を起こさないよう、片手で返事を書いた。
『参りません』
『国の勘定であるぞ』
『退職時に引き継ぎ書を三部置きました』
『読める者がおらぬ』
『それは私の退職後に生じた問題です』
蝶がせわしなく羽ばたく。
『褒美は望みのままに』
イズナは棚田を見渡した。泥人形たちは仕事を終え、水路の底で眠っている。風だけが稲の切り株を撫でていた。
『では、望みを申し上げます。今後、呼ばないでください』
蝶の羽に封印を押し、空へ返す。
猫が薄く目を開けたので、イズナは麦茶を置き、両手でその背を撫でた。五十七枚の田が静まった午後、彼女は数字ではなく、猫の喉が鳴る回数だけを聞いていた。