森の酵母と石の腹

薬草師ネリオは、宮廷で「毒にも薬にもならない男」と呼ばれた。

強い霊薬を作れず、眠りを浅くする茶や、腹を少し温める葉ばかり見つけたからだ。追放先の森では、苔むした家の裏にパン窯が埋もれていた。蔓を払うと、窯床の石が一枚だけ沈み、中央に水が溜まっている。

ネリオは初日を、その一枚の据え直しに使った。

石を持ち上げると、下から湿った腐葉土の匂いがした。砂を敷き、細かな砂利を重ね、木槌で均す。水平を見る道具はないので、浅い皿へ水を張り、その縁と石面を何度も見比べた。

森に住む羽人の娘ルッカが、木の実を集めながら首をかしげた。

「魔法で浮かせれば早いのに」

「早く置くより、沈まないように置きたい」

砂利が締まるたび、石の音は鈍いものから澄んだものへ変わった。宮廷で誰にも求められなかった小さな違いを、森だけが正直に返した。

石を戻し、四隅を叩く。もう揺れなかった。水を垂らしても中央へ集まらず、薄く広がって乾いた。

ネリオは樹皮についた白い粉から育てた酵母を、小麦粉へ混ぜた。王都では「森臭い」と捨てられたものだ。生地はゆっくり膨らみ、指で押すと柔らかく戻る。

窯へ薪を入れ、石の腹を十分に温めてから生地を載せた。火が奥で赤く揺れ、酵母の酸っぱい香りが、次第に甘い焼き香へ変わる。沈みを直した床では熱が均等に回り、パンの底に黒い焦げは一つもできなかった。

焼き上がりを割ると、大きさの違う気泡から湯気がこぼれた。ルッカは耳を澄ませる。

「中で森が息をしてる」

香りにつられ、森仕事を終えた樵が一人立ち止まった。三晩眠れていない顔をしていたので、ネリオはパンを三つに切り、腹を少し温める葉のスープを添えた。

食べ終えた樵は礼を言う途中で、切り株にもたれたまま眠ってしまった。薬のような劇的な光はない。ただ、強張っていた眉間がほどけ、寝息が森の風へ混じる。

ルッカが声を潜めた。

「宮廷が捨てた葉、効いたね」

「パンを食べて、温まって、休めたからだ」

「それを効いたって言うんじゃない?」

ネリオは答えず、自分の一切れを噛んだ。酸味の奥に木の実の甘さがある。

毒にも奇跡にもならない夕食が、疲れた三人を確かに満たした。

窯床の石も、眠る男の背も、ネリオの暮らしも、もう傾いてはいなかった。