欠けた一音
自分の名から一音を切り取れば、誰かの傷を一つ治せる。その代わり、その音と一緒に、その人が自分へした約束も一つ消える。
ポルカナは診療台に横たわるジェレムの右手を見た。
崩れた舞台から彼女を庇い、梁に潰された手だった。指は動かず、神経をつなぐ術師も首を振った。明日の演奏会どころか、二度と弦へ触れられないかもしれない。
「名切りなら治る」
窓辺の小妖精が、鋏を鳴らした。「ポ・ル・カ・ナ。四音あるね。一音で一本の傷。どれを払う?」
ジェレムは眠り薬で目を閉じている。左手には、婚約のために買った細い指輪が握られていた。
昨夜、彼は言った。
『手が治らなくても、演奏家でなくなっても、君と暮らす』
その約束に救われたのは、ポルカナの方だった。彼の手を壊したのは自分だと思っていたから。
一音を切れば、指は戻る。けれど彼の約束が消える。言った記憶だけでなく、約束を支えた決意そのものがなくなると妖精は説明した。
「別の約束では駄目?」
「誰のどの約束が取られるかは、傷が選ぶよ」
妖精の鋏が彼女の名の上を滑る。空中に四つの音が、硝子玉のように浮かんだ。
ポルカナはジェレムの指先へ触れた。ここで治さなければ、彼は約束を守るだろう。演奏を失った痛みを抱えながら、笑って彼女と暮らすだろう。治せば、彼は舞台へ戻り、自由に未来を選べる。その未来に自分がいなくても。
「最初の音を」
鋏が「ポ」を切った。
胸の奥で、小さな糸が切れる音がした。ジェレムの右手が震え、一本ずつ指が開く。
彼は目を覚まし、信じられない顔で手を握った。涙を浮かべて弦を押さえる形を作る。
「治ってる……どうして」
「妖精と取引したの」
「何を払った?」
ポルカナは答えず、床に落ちた一音を拾おうとした。指が触れる前に、それは煙になった。
ジェレムの左手から指輪が転がった。
彼はそれを見て、なぜ持っているのか分からないように首をかしげた。それから彼女へ向き直る。
「ごめん。君の名前、ポルカナ……だったよね?」
名は一音欠けていた。けれど彼の口から消えたのは、もっと長い未来だった。
ポルカナは指輪を拾い、彼の動く右手へ静かに返した。