欠航一時間の貝汁

 瀬戸尾未散が島の船着場へ着くと、窓口に〈強風のため一便欠航〉と貼られていた。

 次の船は一時間半後。

 待合所には長椅子が三つ、古いテレビ、湯気の立つ小さな食堂がある。

 未散は海辺の宿へ向かう途中だった。

 一人旅で予定も少ない。それでも、最初から遅れると気持ちが落ち着かなかった。

 窓際へ座ると、隣に漁師らしい男性が長靴のまま腰を下ろした。

「島へ?」

「はい。宿へ一泊」

「急ぐ用事なら、残念だったね」

「急ぐ用事はないんですけど」

「なら、船が休んでるだけだ」

 食堂の女性が「貝汁、温かいよ」と声をかけた。

 未散は一杯頼んだ。漁師も同じものを注文する。

 椀には小さな貝がいくつも入り、味噌と磯の匂いが湯気へ混じった。

「この貝、何ですか」

「島では『ちい貝』って呼ぶ。正式名は知らん」

「知らなくても採れるんですね」

「向こうも、こっちの名前を知らんだろ」

 漁師は貝殻を一つ、空の小皿へ置いた。

 雨が硝子を斜めに流れ、海は灰色に波立っていた。

 未散は仕事で失敗したあと、有給を取って旅へ出た。誰にも会わず、景色だけ見て帰るつもりだった。

 けれど今、知らない人と名前の分からない貝を食べている。

「島の雨の日、何をするんですか」

「網を直す。昼寝する。貝汁を飲む」

「晴れたら?」

「海へ出る」

「分かりやすいですね」

「天気に相談するから、予定表が薄い」

 未散の手帳には、宿、灯台、散策路、夕日の時刻まで書いてある。

 雨で半分は無理かもしれない。

 手帳を閉じると、貝汁の最後の一口が少し濃く感じられた。

 放送が流れ、次の船は予定どおり出るという。

 漁師は島へ戻る人だった。

 乗船口へ向かう前、未散の小皿を見て言った。

「貝殻、一つ持っていけば」

「思い出に?」

「宿の鍵を置くのにちょうどいい」

 船が出るころ、雨は弱まり、雲の向こうから海へ白い筋が差した。

 未散は窓際に座り、掌の貝殻を指で撫でた。

 待合所で飲んだ味噌と磯の温度が、船の揺れの中でも喉へ残っている。

 旅は遅れて始まったのではなく、欠航した一時間からすでに始まっていた。