段ボールに書いた別名

引っ越し当日、美緒は業者用の段ボールに「月蝕舎 在庫」と書いたことを後悔した。

月蝕舎は、彼女が同人誌を出すときのサークル名だ。箱は十二個。新居では誰にも見られないと思い、いつもの「書類」という偽装をしなかった。

ところが手伝いに来たのは、同じ不動産会社の同僚だった。鍵の引き渡し担当が急病になり、代わりに寄ったのだという。

「この箱、奥の部屋でいい?」

同僚の手が、月蝕舎の文字の上にある。

美緒は箱を奪うように抱えた。

「それは自分で運ぶ」

底がたわみ、一冊が隙間から滑り落ちた。黒い表紙に銀の月。恋愛漫画だと一目で分かる。

以前付き合っていた人には、「そんな本を家に置くなら倉庫代を払え」と笑われた。別れたあとも、その言葉だけが残り、箱にはずっと書類と書いてきた。新しい部屋を選ぶときも、本棚の置ける壁を最優先にしたくせに、不動産会社では「荷物は少ないです」と嘘をついた。

同僚は本を拾い、表紙を伏せずに差し出した。

「作ってるの?」

美緒は頷くしかなかった。

「会社では黙ってて」

「分かった」

あまりに早い返事で、逆に疑った。

「気持ち悪いと思わないの」

同僚は自分のリュックを開けた。中には建築写真の小冊子が何冊も入っている。商店街の看板や古い団地の階段を撮り、自分で綴じたものだという。

「売れないし、誰にも言ってない。けど、捨てろと言われたら困る」

同人誌とは少し違う。けれど、紙の束に時間を閉じ込める気持ちは同じだった。

二人で箱を運んだ。重い箱は下、薄い本の箱は上。同僚は角が壁に当たらないよう、何度も向きを変えた。途中で一冊も開かず、内容を尋ねる代わりに「湿気は北側が強い」とだけ教えた。

新居の奥には小さな棚があった。美緒は十二箱を前に、また「書類」と書き直そうか迷う。

油性ペンの蓋を開き、最初の箱の文字を太くなぞった。

月蝕舎 在庫。

その下へ、「上積み厳禁」と付け足す。

同僚は何も言わず、棚のいちばん乾いた場所を空けた。美緒は初めて、別名のまま箱を新しい部屋へ入れた。