母の穴から一つ外へ
矢田部圭は、片輪堂のカウンターへ母の腕時計を置いた。
飴色の革帯には穴が五つあり、いつも使われていた中央の穴だけが濃く広がっている。母の手首にはそこがちょうどよかった。圭が譲り受けてからも同じ穴で留めていたが、夕方になると皮膚へ赤い輪が残った。
それでも圭は、母の形を変えるようで、新しい穴を開けることをためらっていた。帯を替えるより、きつさに慣れるほうを選んできた。
「帯を替えますか」
店主が革見本を出しかけたので、圭は首を振った。この帯の傷も、母が台所で濡らした跡も嫌いではない。ただ、きつい。
今週末、圭には初めての個展搬入がある。小さな貸しギャラリーで、売れる見込みもない。それでも一年かけて描いた。
同じ日に、実家の美容室では地域祭りの着付け予約が入っている。母からは〈圭なら帰れるでしょう〉と連絡が来た。毎年手伝ってきたし、断れば母一人が忙しくなる。個展の日程を変えようと、会場へ電話するところまで考えた。
店主は圭の手首へ革帯を巻き、既存の穴を一つずつ確かめた。いちばん外側でも、金具がわずかに皮膚へ食い込む。
店主は新しい穴の位置へ白い点をつけ、細い打ち抜き器を当てた。小さな槌を一度だけ下ろす。乾いた音がして、五つの穴の外側に六つ目が開いた。
時計を留めると、帯と手首の間へ小指が一本入った。ゆるすぎず、赤い跡も隠さない位置だった。
店主は抜け落ちた丸い革片を指先で払い、作業台の屑入れへ落とした。記念に返すことも、古い穴を塞ぐこともしなかった。修理票には〈現物合わせ 一穴追加〉とだけ書く。
圭は母への画面を開いた。
〈今週は搬入があるから帰れない。着付けの予約表だけ、今夜オンラインで整理する〉
謝る言葉を先頭へ置きかけてやめた。送信すると、既読はすぐにつかなかった。
会計を終え、圭は時計を腕へ戻した。針は母が使っていたころと同じ方向へ進む。けれど留める場所は、母の穴から一つ外だった。
扉を押すとき、革帯は手首へ食い込まなかった。