母の銀色スプーン

弓乃が実家へ戻った夜、母は何も聞かずにカレーを出した。深い青の器と、柄に小さな兎が彫られた銀色のスプーン。小学生のころ使っていたものだった。

同棲していた部屋を出たことは、電話で「少し帰る」としか伝えていない。彼と別れた理由も、荷物を宅配便で送ったことも、まだ話していなかった。母が事情を察しているのは、食卓に一人分しかないことでわかった。

器は両手で包むと熱く、炒め玉ねぎの香りがした。にんじんだけが昔と同じ大きさで、少し硬そうに見える。弓乃は子どものころ、にんじんを最後まで残し、母に睨まれた。

戻ってきたことを失敗だと思われるのが怖かった。二十七歳にもなって、恋人とうまく暮らせず、親の家へ逃げた。そう言葉にすると、自分がどんどん小さくなる。その悩みを口にできず、弓乃は黙ってカレーを食べた。

母は向かいに座らず、流しで布巾を絞っていた。長い会話の代わりに、鍋の蓋を少しずらした。

「足りなければ、あるよ」

それだけだった。

弓乃はにんじんを一つ、スプーンの端で割った。思ったより柔らかく、歯を立てるとすぐ崩れた。昔のままに見えたものも、ちゃんと煮え方が変わっている。

半分食べたところで、急に涙が出そうになった。子どもに戻ったからではない。子どもだった場所に、大人の自分が座ってもいいとわかったからだ。

器を空にした弓乃は、母に頼まず立ち上がった。鍋の蓋を取り、自分でお玉を持つ。二杯目は一杯目より少なく、にんじんを一つ多くよそった。

母は振り向かなかった。代わりに、食器棚の上段を少しだけ空けた。

二杯目の途中で、母が新しい歯ブラシを洗面所へ置く音がした。滞在期間は聞かれなかった。弓乃も、まだ決めなくてよかった。

帰ってきたのではなく、いったんここを選んだのだと、二杯目の量が教えてくれた。

弓乃は兎のスプーンで、二杯目の最初のにんじんを食べた。今度は、最後まで残さなかった。