母は三つの顔で笑う
蔵満志乃布の母は、娘の顔を三種類から選べた。
認知症介護AI《まどろみ》は、患者がもっとも安心する年代の家族を拡張表示する。八歳の志乃布、三十二歳の志乃布、現在六十一歳の志乃布。母が選ぶのは、いつも八歳だった。
面会室へ入る前、志乃布は鏡の前で表示を切り替えた。白髪も、目尻の皺も消え、赤いランドセルを背負った少女になる。
「お母さん、ただいま」
母は嬉しそうに笑い、プリンを半分くれた。志乃布はその笑顔が欲しくて、二年間、子どもの姿で通った。母が話すのは、遠足の弁当や、亡き父の給料日や、まだ壊れていない家のことだった。現在の志乃布の離婚も、病気も、孫の就職も、そこには入れなかった。母の中で娘が年を取らないようにするたび、志乃布自身の六十年も面会室の外へ置き去りになった。
やがて志乃布自身が、鏡に映る老女を他人のように感じ始めた。面会後も少女表示を切れず、駅で若者にぶつかって初めて、自分の身体が杖を必要としていることを思い出した。
ある日、施設の通信障害で《まどろみ》が停止した。
志乃布は現在の顔のまま母の前へ出た。母は怯え、ナースコールを押そうとした。
「私よ。志乃布よ」
「うちの志乃布は、こんなおばあさんじゃない」
胸を裂かれたようだった。志乃布は帰ろうとした。その背中へ、母が言った。
「でも、その手は知ってる」
母は志乃布の手を取り、節の太い指を撫でた。幼いころ転んだ傷跡が、薄く残っていた。
「ずいぶん働いた手だね。疲れたでしょう」
記憶が戻ったのか、誰かと間違えたのかは分からない。数秒後には、母はまた志乃布を知らない顔で見た。
それでも翌週から、志乃布は年齢補正を使わなかった。母は泣く日も、怒る日もあった。八歳の娘ほど笑ってはくれなかった。
ある午後、二人で鏡に映った。母は九十歳、娘は六十一歳だった。
「親子に見える?」と志乃布が聞くと、母は首を傾げたあと、くすりと笑った。
「どっちがお母さんかしらね」
完璧な再会ではなかった。だから志乃布は、その笑いを現実だと思えた。