水のないスタート台

最後の部活動の日、プールに水はなかった。

配管のひびが見つかり、冬のうちに全部抜かれていた。青い底には落ち葉が張りつき、コースロープだけが倉庫の前で丸まっている。

紗英はスタート台の上に立った。

夏の最後の大会、自由形で〇・〇一秒差の二位。ゴール板へ触れた瞬間から、その数字がずっと指先に残っていた。引退後も、放課後になると水のないプールへ来た。泳げないのに来る自分が、いちばん未練がましいと思った。

「やっぱりいた」

フェンスの向こうから岳志が顔を出した。元副主将で、今は受験を終えた顔をしている。

「鍵、閉めるよ」

「顧問みたいなこと言わないで」

「顧問に頼まれた」

「本当に顧問だった」

岳志はプール底へ降りた。水深一・八メートルの壁が、彼の肩より高い。

「最後に一本、やる?」

「水ないけど」

「だから速い」

彼は第一コースの端へ立ち、しゃがんだ。

「底を走って、向こうの壁にタッチ。五十メートル」

「馬鹿じゃない?」

「〇・〇一秒くらい縮まるかも」

「競技が違う」

「負けるの怖い?」

「それは卑怯」

紗英も階段から降りた。

二人でスタート台の真下に並ぶ。飛び込む代わりに、両手を前へ伸ばして構えた。

「用意」

岳志が自分で言う。

「ドン」

靴底が乾いたプールを叩いた。

水の中なら聞こえない足音が、壁に何度も跳ね返る。紗英は笑いそうになり、でも岳志が本気で走るから本気で追った。途中、落ち葉を踏んで滑り、腕を回して持ち直す。

残り五メートルで並んだ。

紗英は壁へ手を伸ばした。大会の日と同じように、最後の一歩を合わせる。けれど岳志も同時に触れた。

「どっち?」

「私」

「俺」

「計時してないの?」

「選手二人しかいない」

「役に立たない副主将」

「引退済みです」

息を切らしながら、二人は壁にもたれた。

見上げると、空が長方形に切り取られている。水面があった場所を、雲がそのまま通っていった。

紗英は右手を見た。〇・〇一秒は、もうそこにいなかった。

「もう一本」と岳志が言う。

「最後って言ったじゃん」

「今のは同着だから無効」

「じゃあ次が最後」

「負けるまで言うやつだ」

「勝つまでだから」

閉門のチャイムが鳴るまで、二人は水のない五十メートルを四本走った。

記録は残らない。泳法違反どころではない。最後の一本では、紗英が笑いすぎて途中でしゃがみ込み、岳志が先に壁へ触れた。

それでも帰り際、彼女は言った。

「最後は私の勝ちね」

泳げなかったことを、最後まで悔しがらなかったからだ。