水面に残る名前
市民プールの更衣室で、国見芹香は財布から青い札を落とした。受付で買った一回券は汗で少し湿っていた。申し込んでは玄関で引き返すことを二度繰り返し、今夜ようやく更衣室まで来た。白い数字で「6」とある。高校のプールで使っていたレーン札だ。角が欠け、塩素の匂いはとうに消えている。
最後の大会を、芹香はスタンドから見ていた。肩を痛め、リレーのメンバーを外れたからだ。引退の日、皆が記録写真を撮り終えてからも、彼女だけはジャージを脱げずにいた。
「一本、泳いでいいですか」
顧問は時計を外した。
「今日は計らない」
水は夕方の光を薄く揺らしていた。塩素の匂い、濡れたタイルに吸いつく足裏、排水口へ流れる細い水音。どれも大会の日と同じなのに、観客席が空だと別の場所のようだった。飛び込み台に立つと、無人の観客席が正面に見えた。スタートの笛もない。芹香は自分で息を吸い、そっと蹴った。
肩はすぐ重くなった。二十五メートルが、試合の百メートルより長かった。いつもなら壁に触れた瞬間、電光板を探す。けれど、その日は数字がどこにもなかった。
折り返さず、仰向けになった。耳が水に沈み、校庭の声が遠くなる。天井の鉄骨の間に、細い夕焼けが見えた。速くなくても、水は身体を支えていた。
プールから上がると、顧問がレーン札を渡した。大会の日に芹香が泳ぐはずだった六番だった。
「持って帰れ。空けたままにしないために」
意味は聞かなかった。芹香は濡れた掌で札を握り、部室の名札を自分で外した。
それ以来、泳いでいない。速さを失った自分が水へ戻る理由などないと思っていた。
今夜の市民プールには、電光板も応援もない。芹香は青い札をロッカーの内側へ置き、水着の肩紐を直した。六番レーンは子どもの教室に使われていたので、空いている三番へ向かう。
水面へ指を入れる。冷たさが腕を上ってきた。
彼女は時計をプールサイドに置いたまま、静かに蹴った。
今度の名前は、記録表ではなく、水の中に残ればよかった。