泣けない聖女の月雫湯
《月守りの宿》には、夜しか湧かない湯がある。
女将カナメが閉店札を返そうとしたとき、白い法衣の客が一人で訪れた。聖女セラフィナ。祝福の光を絶やさぬよう、涙腺まで神殿の術で封じられているという。
「泣けば民が不安になる。だから十年、泣かない身体にされました」
だが昨日、彼女を庇った護衛が亡くなった。悲しみは出られず目の奥に溜まり、今では光を見るだけで針を刺されるように痛む。
「治療ではなく、一時間だけ泣ける場所が欲しいのです」
カナメは月雫湯へ案内した。屋根のない小さな浴槽に、満月が丸ごと沈んでいる。
「この湯は祝福を壊しません。人に見せるための光だけ、湯気の向こうへ置けます」
セラフィナが肩まで浸かると、法衣に残った聖光が蛍のように離れた。湯気の上で静かに浮かび、彼女の顔だけが普通の娘の暗さへ戻る。
最初の涙は、驚くほど小さかった。
「あ」
次の一滴が頬を伝い、湯へ落ちる。透明だった湯に青い輪が広がった。そこからは止まらなかった。聖女は声を上げず、両手で顔を覆った。
「最後に、ありがとうと言えなかった」
カナメは答えなかった。代わりに、湯気が庭へ逃げないよう衝立を少し寄せた。この宿では、涙も客の持ち物である。誰にも見せず、誰にも意味を決めさせない。
セラフィナは十年ぶんではなく、昨日失った一人ぶんだけを泣いた。
カナメは背を向け、砂時計の砂が落ち切るまで庭の月を見ていた。
砂が落ち切る頃、湯面の青い輪は月へ吸われて消えた。湯上がりのセラフィナは、赤い目で笑った。
「痛くありません。目も、胸も」
法衣へ戻った光は以前と同じに輝いていた。しかし彼女の表情だけが、借り物ではなくなっている。
料金皿へ置かれたのは、聖印入りの金貨ではなく、市場で使う銅貨だった。
「自分で働いて得た最初のお金です。これで払わせてください」
さらに一枚、来月分が重ねられた。
夜明け前、聖女は一人で坂を下りた。カナメが月の消えた湯船へ蓋をしたとき、玄関の鈴が朝一番の音を鳴らした。