海底で消えた地図

海底神殿の入口で、探索隊の地図は白紙になった。

 隊長セダンが水泡越しに叫ぶ。

「墨が消えているぞ!」

 耐水紙のはずだった。だが紙を包んでいた透明膜の端が開き、塩水が入り込んでいる。地図だけではない。扉を開くための詠唱札も、帰還符も、文字が青い雲のように滲んでいた。

 昨日、荷物持ちユグルを「泳げない足手まとい」と岸へ置き去りにした。彼は潜水鐘の中で荷を守るだけだったから、誰にでも代われると思ったのだ。

「予備は?」

「同じ筒に全部入っています」

 筒を開ける。予備も濡れていた。水中灯の光を当てても、文字は戻らない。仲間の一人が記憶だけで右の回廊を指したが、そこには海蛇の巣が揺れていた。誰も二度目の賭けを口にしなかった。

 ユグルなら、原本、写し、帰還符を別々の筒へ入れ、蜜蝋で二重に封じた。潜る前には必ず膜を息で膨らませ、穴がないか確かめた。その細かな手順を、セダンは「臆病者の儀式」と呼んで省かせた。

 神殿の石扉が背後で閉じ始める。帰り道を示す地図はない。探索隊は宝を見る前に、入口の隙間へ腕を差し込んで逃げることになった。魔法剣より先に失ったのは、紙切れだった。

 そのころユグルは、海辺の学術院で古文書を箱へ収めていた。

「乾燥砂を底へ、写本は別箱へ。船が沈んでも、浮くよう空気を残します」

 海人族の学者メーレが箱を水槽へ沈めた。重石を外すと、箱はゆっくり浮上する。開けた中の紙は一滴も濡れていない。

「君は泳げなくても、海の資料を誰より遠くへ運べる」

 彼女は《水中文書保全士》の札をユグルの机へ置いた。

「研究者が百年かけて読む文字を、今日の浸水から守る仕事だ。正式に任せたい」

 そこへ探索隊の伝令貝が鳴った。

『ユグル、封印筒を持って神殿へ来い。今回の置き去りは取り消す。次から潜水鐘も用意する』

 声の奥で、セダンが誰かに石扉を支えろと怒鳴っている。

 ユグルは乾いた写本へ蓋をし、貝に向かって静かに言った。

「岸に置き去りにされた時点で、探索隊との保全契約は終了しています」