海底線の終端

雁屋直人が乗る最終電車は、海面下四十メートルを走っていた。

 旧湾岸区は十五年前に沈み、透明なトンネルの外には信号機やマンションの屋上が魚影と並ぶ。車内には直人一人。膝の上には、都市記憶庫を開く真鍮の鍵がある。

「終点まで、あと五分です」

 女性の自動放送。潮の匂い。窓に張りつく白い手形。

 残り一分でトンネルに亀裂が走り、水が車内へ噴き込む。直人が溺れた瞬間、放送はまた告げる。

「終点まで、あと五分です」

 記憶庫には、沈没前に保存された八万人分の人格データが眠る。直人の両親も妹もいる。鍵を届ければ、仮想都市を起動できる。しかし列車が終点へ着かなければ、電源は入らない。

 一周目は非常扉を補強した。二周目は亀裂の位置へ座席を積んだ。三周目、白い手形を拭うと、窓の外から妹の顔が現れた。

『早く開けて』

 声はガラス越しなのに、耳元で響いた。

 直人は制御盤を開き、運行記録を読んだ。海底線は本来、十年前に撤去されている。いま走る列車も、乗客である自分も、都市記憶庫が再生している避難訓練データだった。亀裂は事故の再現。鍵を届けるたび仮想都市が起動し、八万人は沈む直前の五分をまた生きる。

 成功条件は記憶庫を開けることではない。海底線の運行データを消し、訓練を終了させることだった。

 制御盤には二つの差込口がある。〈起動〉〈永久削除〉。後者へ鍵を回せば、人格データも街の記録も復元不能になる。

「終点まで、あと五分です」

 放送が初めて震えた。窓の外に、食卓を囲む家族の姿が映る。母が味噌汁をよそい、父が新聞を畳み、妹が直人の椅子を蹴った。忘れていた朝だった。

『帰ってきて』

 直人は真鍮の鍵を永久削除へ差した。

「帰らない。もう沈ませない」

 回すと、海中の街から順に灯が消えた。家族の顔も、道路も、彼自身の幼少期も白い砂のように崩れる。最後に妹の手形だけが残り、やがて水へ溶けた。

 亀裂は走らなかった。列車は存在しない終点を通り過ぎ、暗い保守坑へ停まった。

 地上へ出た直人は、どの町で育ったのか思い出せなかった。ポケットの鍵もただの錆びた金属になっている。

 背後の海は静かだった。そこに誰が眠っているか、もう呼べる名前は一つもなかった。