湖霧と一羽の鴨
桑折和南は、昇進候補から外れた金曜の夜、湖畔のペンションを予約した。
同期が課長になり、自分には「次も期待している」と言われた。祝う気持ちと悔しさが同じ胸にあるのが面倒で、誰にも会わない週末が欲しかった。
朝、湖は霧で何も見えなかった。
窓からの眺望を楽しみにしていた和南は、損をした気分で外へ出た。
桟橋の先に、小学生くらいの少年が双眼鏡を構えている。
「見えます?」
「鴨が一羽」
「霧なのに?」
「音がするから」
少年は宿の娘の子で、毎週末に鳥を数えているらしい。
和南は桟橋へ並び、耳を澄ませた。
水をかく小さな音。霧の向こうから、時々短い鳴き声。
姿は見えないのに、確かに何かが動いている。
「一羽だけ?」
「今見えてるのは」
「ほかにもいるかもしれない?」
「見えた分だけ書く」
少年のノートには、日付と天気、鳥の名前が鉛筆で記されていた。予想の欄も評価の欄もない。
朝食は、焼いたパンと茸のスープだった。
ペンションの主人が、湖を見られなかった詫びだと言ってシナモントーストを一枚多く出した。
「霧も景色でしょう」
和南は自分で言って、少し驚いた。
トーストの表面には、砂糖とシナモンが薄く焦げている。
噛むとさくりと割れ、甘い香りが珈琲の苦みへ混じった。
少年は隣の卓で、鴨の絵を描いている。実物をほとんど見ていないので、体は妙に丸く、嘴は長かった。
「似てないね」
「霧の中では、これかもしれない」
少年は気にしない。
昼前、霧が少し晴れた。
湖面へ一羽の鴨が現れ、その後ろから二羽、三羽と続いた。
和南は少年のノートを覗く。
「数を直す?」
「朝は一羽だったから、そのまま」
見えなかった時間まで、あとから書き換えないらしい。
帰りのバスで、和南は会社の評価通知を開いた。
昇進しなかった自分だけが、同期より遅れていると思っていた。
けれど霧の中でも水をかく音はしていた。肩書に見えない仕事や、今日まで積んだものまで消えたわけではない。
鞄には主人が包んだシナモントーストが一枚入っていた。
紙袋から甘い焦げ香がし、窓の外では湖がまた木々の向こうへ隠れる。
和南は次の評価までを数えず、月曜にまず一つ、自分が続けたい仕事を選ぼうと思った。