潮風の保存ボタン

最終フェリーの出航まで、あと十分。

一成は待合室の端で、修理から戻ったスマートフォンを麻緒へ渡した。海へ落として以来、半年ぶりに電源が入る端末だった。

「写真だけ戻ればいいって言ったのに」

「店の人が、全部復元できたって」

「全部、か」

麻緒は島の旅館を畳み、本土のホテルへ勤める。足元には大きなキャリーケース。ポケットには片道の乗船券が見えていた。ケースの取っ手には、一成が子どもの頃に編んだ不格好な青い紐が結ばれている。捨てたと思っていたものだった。

端末が起動すると、メッセージアプリに「未送信の下書き一件」と表示された。麻緒が画面を隠すより早く、一成は冒頭を読んでしまった。

〈行かないでって言ってくれたら、残る〉

宛先は一成。作成日は、旅館の閉業を決めた夜だった。

「これ」

「見ないで」

「俺は、君が島を出たがってると思ってた」

「出たかったよ。あなたが何も言わなかったから」

一成のポケットには、旅館の勝手口の合鍵が残っていた。閉業の日に返すはずが、返せば麻緒まで島からいなくなる気がして持ち続けていた。

窓の外で係員がロープを外し始める。残り七分。

一成は、あの夜の自分を思い出した。麻緒の夢を応援するふりをして、寂しいと言わなかった。島に残ってくれと頼めば、彼女の未来を狭める気がした。だから笑って「よかったな」と言った。

「今なら言える」

「何を?」

「行かないで」

麻緒は目を閉じた。潮風が自動扉の隙間から入り、髪を揺らす。

「今言われたら、困る」

「残れない?」

「残れるよ。だから困るの」

一成は言葉を止めた。麻緒が残れば、古い旅館の借金も、島の狭い仕事も、また彼女の肩に乗る。彼が欲しかったのは麻緒であって、彼女の諦めではない。

出航五分前のベルが鳴った。

麻緒は下書きを開き、送信ボタンの上で指を止めた。「これ、届いたら返事する?」

一成は首を横に振った。「届かないほうがいい」

麻緒は泣かずに笑い、下書きを削除した。端末から消えた一行は、もう二人とも知っている。

係員が乗船を促す。麻緒は片道券を切ってもらい、船へ向かった。

一成は桟橋に残り、結び直しかけたロープから手を離した。