濡れた刃
「その包丁、洗ってありますね」
富樫玲央は取調室の机に置かれた証拠袋を見て言った。
小比賀真砂警部補は返事をしなかった。妻を刺殺した容疑で、富樫は現場にいたことも、口論したことも認めている。ただ、包丁だけは自分のものではないと言い続けていた。
袋の中の刃には、水滴が細く残っている。鑑定前に洗うはずはない。血液反応は柄の溝からだけ検出され、刃からは消えていた。
「台所で洗ったんだろう」
「俺の包丁なら、先が欠けてる。冷凍肉に刺して折ったから」
「言い逃れはやめろ」
「床の写真を見ろ。欠けた先が刺さってる」
監視窓の向こうで針生康平刑事課長が腕を組んだ。富樫の妻と最後に連絡を取ったのは、針生の息子だった。交際を疑われていたが、課長は『被害者から相談を受けただけ』として事情聴取を止めている。
真砂は現場写真を拡大した。流し台脇の床板に、銀色の三角片が食い込んでいる。現在の包丁の先端は丸く、欠損がない。さらに写真の柄は黒木目だが、袋の柄は無地の樹脂だった。
内線が震えた。
――自白の任意性を確認して終われ。
富樫が机へ身を乗り出した。
「俺は殴った。最低だ。でも刺してない。あんたらは、俺が最低なら何を足してもいいのか」
真砂は席を立ち、取調室を出た。針生は廊下で待っていた。
「包丁の個体差だ。量販品だぞ」
「写真と違います」
「富樫は暴力常習者だ。息子まで巻き込むな」
「原物はどこです」
針生は答えなかった。
真砂は証拠品乾燥室へ向かった。廃棄予定の箱の底に、黒木目の柄の包丁があった。刃先が欠け、乾いた血の下から二人分のDNAを示す古い鑑定ラベルが剥がされかけている。登録番号は、取調室の袋と同じだった。
持ち出せば、証拠管理違反で自分も処分される。黙れば、富樫の暴力が殺人へ書き換わり、針生の息子は記録から消える。
真砂は原物を新しい袋へ入れ、廃棄箱の位置と時刻を胸部カメラへ告げた。そのまま取調室へ戻る。
二つの包丁を富樫の前へ並べ、録音機の赤いランプを確かめた。
「ここからは、証拠品すり替えの聴取を始めます」