灰色の面頬
狼谷景親は、死人の面頬を顔に結んだ。
灰色の鉄に、口元だけ獣の牙が彫られている。持ち主は敵の夜回り頭・葛城兵馬。三年前に喉を矢で潰し、それ以来ひと言も話さない男だった。
だから景親が兵馬になりすますのに、声は要らない。
必要なのは歩き方だけだった。兵馬は右脚を引きずる。景親は右草履の中へ小石を三つ入れた。踏むたび足裏を刺し、自然に身体が傾く。
命令は記憶している。北山砦へ入り、「二更、敵本陣の灯が消えたら谷へ火を放て」と伝える。それだけだ。敵陣を抜けるには、灰色の面頬が通行札になる。
第一の木戸で、番兵は面頬を見るなり頭を下げた。第二では、酒に酔った足軽が馴れ馴れしく肩を組もうとした。景親は無言で腹を蹴った。兵馬ならそうする、と死体の周囲に怯えていた者たちから聞いている。
第三の木戸に、兵馬の弟がいた。
若武者は松明を上げ、面頬の奥を覗いた。
「兄者、母上の薬は届きましたか」
景親は答えられない。兵馬が口を利けないからではない。頷くか首を振るか、その事実を知らない。
若武者は懐から小さな薬包を出した。
「忘れておられた。今夜こそ持っていってください」
景親は薬包を受け取った。紙越しに乾いた草の匂いがした。兵馬を斬ったとき、その懐を探らなかった。薬を待つ母がいることも、弟が同じ陣にいることも、死人は教えない。戦場では知らないことだけが人を早く歩かせる。頷かなかった。首も振らなかった。ただ、兵馬が弟へしたであろう仕草を選んだ。拳で若武者の胸を一度だけ叩く。
弟は笑い、木戸を開けた。
木戸を離れたあと、背中で弟の声がした。『兄者、帰りは一緒に』。景親は歩調を変えなかった。面頬の中で息が白く曇り、死人の顔が一瞬だけ自分のものになった。
敵陣を出てから、景親は薬包を捨てられなかった。腰へ差したまま、北山砦の空堀まで走った。背後で正体が割れ、追手の松明が増えていく。
砦から矢が飛ぶ。景親は面頬を外し、灰色の牙を月へ向けた。砦兵が縄梯子を下ろす。
中へ転がり込むと、守将は命令を一度だけ聞いた。
景親が答え終える前、遠い敵本陣の灯が一斉に消えた。
守将は谷を見下ろし、右手を上げた。
北山砦の火矢隊に、弦を引く命令が下った。