焦げ目は父の新作
舟窪志礼の父は、母が入院してから料理を始めた。
最初の一週間は惣菜を皿へ移すだけだった。二週目に味噌汁を作り、三週目の日曜、カレーへ挑戦した。
玉葱を炒める途中で電話が鳴った。
父が戻ったとき、鍋の底は茶色を越えて黒くなっていた。
「捨てるか」
「まだ分からない」
志礼は焦げていない上の部分を別鍋へ移し、水とトマトを足した。
それでも、煙のような苦い匂いは残った。
夕食には、弟も帰ってきた。
父が皿を置き、緊張した顔で二人を見る。
志礼は一口食べた。
苦い。かなり苦い。
「どう?」
「燻製カレーみたい」
志礼が言うと、弟もすぐ続けた。
「店でありそう」
「本当か?」
「新作」
二人は黙って水を多く飲んだ。
父は嬉しそうに二杯目をよそった。
志礼は止めようとしたが、父は一口食べたところで眉を寄せた。
「苦いな」
「少し」
「かなりだろ」
「新作だから」
父はしばらく黙り、それから吹き出した。
「お前たち、母さんに似て嘘が下手だ」
三人で残りのカレーをどうするか相談した。
牛乳を足す。チーズを載せる。卵で包む。
翌朝は焼きカレートーストにし、昼にはカレーうどんへした。焦げ味は消えなかったが、毎回少しずつ丸くなった。
母へ電話すると、父は「カレーは成功した」と報告した。
志礼と弟は画面の外で顔を見合わせた。
「本当?」
母が訊く。
「新しい味だった」
父も優しい嘘を覚えたらしい。
退院した母が家へ戻る日、父はもう一度カレーを作った。
今度は電話へ出ず、玉葱を弱火でゆっくり炒めた。
鍋の底へ少しだけ焦げ目をつけ、
「香ばしさは残す」
と得意そうに言う。
食卓で母が一口食べた。
「おいしい。前のより?」
父は志礼たちを見る。
「前のは、家族限定の試作品」
志礼が答えた。
弟も頷き、母だけが首を傾げた。
台所には玉葱と香辛料、ほんのわずかな焦げの匂いが残った。
三人だけが知っている失敗は、隠すほど重い秘密ではない。
笑って食べ切った数日を、家族の新しい味として鍋の底へ薄く残す秘密だった。