煙の向こうの白い腕
火災報知器が鳴ったとき、廊下はもう白い煙で満ちていた。
私は会議室の床を這い、ドアの隙間から伸びた白い手袋につかまった。防火服の人物が酸素マスクを押し当てる。
「吸って。出口まで運びます」
声は機械越しに低く歪んでいた。視界のない中、その言葉だけを信じた。
妙だったのは、白い手袋に煤が一つも付いていなかったことだ。壁も床も黒く汚れているのに、指先は新品のようだった。防火服の空気ボンベにも圧力計がなく、肩をぶつけたとき中から空洞の軽い音がした。
酸素にも甘い匂いがあった。病院で嗅いだことのない、眠気を誘う匂いだ。私は浅く息をし、気を失ったふりをした。
抱え上げられ、何度か角を曲がった。非常階段なら下るはずなのに、身体は一度も傾かない。靴音の下で、廊下のカーペットが続いている。
廊下の角には煙を吐く小型機械が置かれ、電源コードは警備室の方向へ延びていた。炎から生じた煙ではない。
途中で本物の非常放送が聞こえた。「東階段は安全です」と告げていたのに、二人は反対の書類搬入口へ向かった。防火扉を開けるカードの電子音は、社内の警備カードと同じだった。
「屋外へ出た」
防火服の人物が言った。だが、頬に風が触れず、サイレンは同じ長さで繰り返していた。録音だ。
薄目を開けると、担架の脇をもう一人の防火服が歩いていた。背中の文字は消防署名ではなく、剥がしたシールの跡だった。
私は内部監査室で、社内の横領記録を調べていた。今朝、証拠を警察へ持ち込む予定だと上司にだけ話した。
「鞄は?」
「回収した。端末の暗証番号は本人から聞く」
二人の会話が聞こえた。
担架が金属の床へ載せられた。扉が閉まり、車が動き出す。私は勢いよくマスクを外して起きた。
窓のない配送車だった。防火服の一人がヘルメットを脱ぐ。警備会社から出向してきた上司の顔が現れた。
遠く、本物の消防車のサイレンが近づいてくる。
上司は白い手袋を替えながら言った。
「火は書類庫だけだ。君は救助されたことにしておく」
私を煙から救った白い腕は、証拠と一緒に外へ出さないための鍵だった。